6mm方眼ノート

方眼紙に書くと、なんとなく、普通の紙に書くよりも整理できるような気がするよね。

「大学じゃない大学」の存在から大学を想う

東京新聞:街全体がキャンパス 多摩の自然、魅力を体験 東京にしがわ大学:東京(TOKYO Web)
http://bit.ly/9PIsLh


こういうニュースを見るたびに、「大学という呼称」は、市民に期待されているのだな、と感じます。
人が集い、知的生産をしたり、専門化がそのノウハウを伝達したり、等といった場所の象徴として「大学」という呼称には魅力と権威があるということ。
そういった取り組みをしていく上で、大学という看板を掲げることにポジティブな意味づけがされている、という事実。

個人的には(以前にエントリーでも記していますが)、大学と称するものが群発することによって、「正規の大学の情報が得にくくなる、混乱を招く」ことが危惧されるため、わたし自身はなんとかしてこう、区別できないものか、とも考えているのですが、


補足と訂正:
過去のエントリーでは、こういう大学をいけすかない、と称していますが、取り組みに反対であるというのではありません。大学という呼称を用いることで全体をまぎらわしくしている、という問題性を自覚しているだろうか、という部分が腑に落ちない、と言いたかっただけです。言葉足らずですが、過去の私は今よりも馬鹿だったのです、すみません

それとはまた別のベクトルで、こういった「無認可大学」「非正規大学」が増えれば増えるほど、思うところがあります。


ひとつは
「知的向上を欲している人々が在野にいるからこその営み」
であるということ。
今よりも賢くなりたい、何かを得たいという欲求が、そこには確かにあるはずで、需要と供給が一致した結果としての非正規大学の繁盛、存続であるのだろう、と。


その延長に、もうひとつ、
「正規の大学は大丈夫なのか。」
ということ。

なぜ、世間の知的向上のニーズを、正規の大学は供給できないのか。
答えはいくつか想定できます。
・所詮は「資格(=就職のための通行手形)主義」だから
・学費が高いから
・市民が要求する学びが大学のカリキュラムと合致しないから

結果、上記の要因にとらわれない、いわば市民大学のようなものが創出されるのは自然な流れといえば流れなんでしょうね。

正規の大学はこのままでいいんでしょうかね。
カリキュラムポリシーはしっかりしているのでしょうか。
驚愕理念や社会的意義よりも「目先の経営判断」が先行してしまってはいないでしょうか。

知的創造、人的資源育成という命題を果たしていると胸を張って言えるのか。
そのうち「無認可大学のほうがよっぽど大学らしい」なんて言われる日が来ないように気をつけていただきたいものです。

とはいえ、私も偏見や先入観をもって「大学でない大学」を見ているかもしれない。
……とりあえず、足を運んでみましょうか。今回も。