6mm方眼ノート

方眼紙に書くと、なんとなく、普通の紙に書くよりも整理できるような気がするよね。

「仕事のミス」で「ダメージを負う」のは誰なのか

さきほど、

ダメージを最小限に抑える!仕事のミスを挽回するための小ワザ集
http://allabout.co.jp/matome/cl000000006640/

という記事をなんとなく見かけたわけです。
 
私も、恥ずかしながらい、仕事をしていればミスはします。はい。
けっして少ないほうではない?と思います。笑。笑えないけど。
なので、どんな事が書いてあるのだろう、と素直に思い、クリック。ここまではライターの思惑通りなのでしょうが…

なんといいますか、内容に、ものすごく違和感を覚えたのです。
 
自分のこと」にしか着眼してないんですよ。
自分が許してもらうこと、自分の信頼の失墜を防ぐこと、にしかフォーカスされていない。
仕事のミス」の話なのに。

もちろん、それも大事なことでしょう。食っていくためには、職を失うわけにはいかないですし。自分の評価が高ければこそ、集団のなかで発揮できる生産性もあるでしょう。
そういう事柄に触れるな、という事ではないのです。
なぜ「自分のダメージ」ばかりで「仕事のダメージ」のことが出てこないのか
 
この記事は「仕事のミスを挽回する」と称していながら、「仕事全体のダメージ」にはまったく着眼してないわけですよ。
保身のことしか考えておらず、相手のことにはまったく意識が向いていない。
仕事がネタである必要がまったく無いやないか、と。
  
「仕事」でミスをした時、ダメージを負うのは自分だけではないんです。
ひとり起業であれ、会社員であれ、ファストフードのアルバイトでさえも、「仕事をする」ということは、「多くのステークホルダーと連結する」ことです。
そのダメージは自分だけでなく(もちろんミスの程度にもよるが、)自分の所属するチーム、自分の生産している商品、自分を雇っている会社、生産したサービスを享受している顧客、すべてに及ぶ可能性があるわけで。
 
この記事の作成者は「仕事でミスをする」ことの本質を分かっていない。
 
仕事全体のことが見えていない。
「自身の評価」でしか、仕事の正負を測れていない。 
俺は周囲のひとに、そういう姿勢で仕事をしてほしくないし、俺自身も、そういう姿勢で仕事はしたくない。
こういう発想の人間が「隠蔽体質」になるのでは、とさえ思えてくるんですよね。
___
  
批判的な発言ばかりでは、なんかいやらしいですので、持論も書くとですね。
 
保身を考えるな、自身の心配をするな、という意味ではないのですよ。
最初にも書きましたが、立場や信頼がなければ、生産性も発揮できませんからね。

だとしても、ですよ。
だとしても、「仕事のミスを挽回する」という行為は、まず「仕事全体のダメージ」にフォーカスされるべきです。
 
もし、仕事でミスをしてしまったら、どう振る舞うべきか。
 
まず第一に、ミスの影響範囲をなるべく性格に把握することでしょう。(これを実践するには、迅速な報・連・相が有効だと思う。)
そして第二に、影響範囲のなかに、もしデリケートな部分、大きな信頼に関わる部分(=ダメージに弱い部分)があるなら、まずそこをケアすることだ。応急手当でもいい、手遅れになる前に手を付けることが大事でしょう。
特にデリケートな部分がない場合は、自分の手の届く身近なところから、ひとつずつ丁寧にミスを補填していくこと。

この手順で「仕事全体に及ぶダメージをなるべく低く」する。

逆に、この手順を踏めない人間が、いかに「振る舞い」や「言葉遣い」で自分のダメージを回避したところで、挽回できるとは到底思えませんが。(もちろん失敗の程度による)
 
__
 
どうして、そんなネタばっかりまとめる羽目になっちゃってるんでしょうね、この記事も。

まあ、なんといいますか、世間ではこんなこと
「常識過ぎて」
書くまでもない、テキストにおこす気にもならない、為に、エントリが存在しないのかもしれませんが。

だとしたら、わざわざテキスト化している私のほうが「仕事できないやつ」っていう可能性もありますね。
 
はぁ。
 
仕事しよ。

それも妖怪のせいなのね、そうなのね

スーパー戦隊生誕40周年、新ヒーローは『手裏剣戦隊ニンニンジャー』
http://www.oricon.co.jp/news/2046483/full/
 
過去に忍者モチーフは、『忍者戦隊カクレンジャー』(94年2月〜)、『忍風戦隊ハリケンジャー』(02年2月〜)があり、いずれも人気シリーズとして大ヒット。3作目となる今作のヒーローは、「ラストニンジャ」とうたわれた史上最強の忍者・伊賀崎好天を祖父に持つ、5人の若者たち。かつてラストニンジャによって封印されたはずの妖怪が復活。いとこ同士の5人は「ニンニンジャー」として、人々を襲う妖怪を倒すために立ち上がる。彼らは「忍びなれども忍ばない!」を決めゼリフに、手裏剣忍法を駆使し、ド派手な戦いを繰り広げる。


忍者という設定は3作めであるということですが…。
いや、というか、ヒーロー側が忍者であるという設定よりも、敵が「妖怪」であるということが気になる。

こんな言い方あれかな、って思うんすけど
妖怪ありきで企画したろ。これ。
 
地獄先生ぬ〜べ〜』の再燃の際には、おぉ 勝ち馬に乗る感じかぁ、くらいで見ていたのですが、まさか「妖怪」「ようかい」がこんなにも文化的に浸蝕するとは。正直なところ驚いてます。

STAP細胞という非科学的なものの話

以下、ものすごくアホな文章ですので、まあ、真に受けないでくださいね。
 
敢えて言うけど。
俺、思うんですよ。
STAP細胞はあるんじゃないか、って。

実際にその時はちゃんと出来てたんじゃないか。
ただ、その存在は「非科学的なものだった」っていうオチなんじゃないか。
って。
 
 
どんだけの関係だったか知らんけど、…ただ女の嘘をかばうだけの理由で、あんな優秀な研究者が自殺しますかね?
まあ、するかもしれんけど。
 
 
STAP細胞はあります、と言った小保方さんの言葉に嘘はなかったと思うんすよね。
なぜなら俺は
 「世の中には非科学的なこともある」
と本気で思っているから。
 
 
再現できなかったので、STAP細胞の存在は確認されなかった。
STAP細胞そのものの存在が否定されたわけじゃない。
存在を肯定するための科学的根拠が得られなかった、というだけだ。
 
そう、小保方さんは、そんとき
  【あくまで超常現象的に】
STAP細胞を見たのではないか。
 
俺はなんとなく、そう思えて仕方ないわけですよ。
 
ただ周囲は、「科学者として」そんな話を認めることは出来ないでしょうよ。
一般大衆も、比較的、こんなこと認めないでしょうよ。
「科学的ではない」「非常識だ」という理由で。
 
現代社会は、精神性や世界観よりは「科学」のちからの活用で発展してきているし、科学的な事こそ常識だとされる。
 
まあ俺も、基本的には、そう考えてるし。
 

でもね、もし仮にね、
もし仮にだよ。
 
小保方さんが【超常現象的にSTAP現象を引き起こしていた】としよう。
 
そんとき調子がよかったから出来たわけだ。
 
しかし、騒がれたりなんなりで、ちょっと調子が狂ってしまった。
急にSTAP現象を引き起こせなくなってしまったわけだ。
 
本人すらその現象が「自分が起こしていた超常現象」であったことを把握していない、としよう。
 
 
小保方さん自身が、いちばん必死こいて、再現しようとするやろう。
 
 
しかし困った、微細なデータや研究ノートが無い。
だって、そんなに厳密にやらなくても、正直、出来ていたんだもの。
細かいこと気にしなくても200回近く再現できていたんだもの。
しかし、なぜだろう、今は出来ない。
焦る。
どうしよう、なんで出来ないの?!。
もっと厳密にデータを取っておけばよかった。
 
しかし微細なデータをとっておいたところで、あんまり意味がなかったんじゃないか、と俺は思う。
だってあれは【超常現象】だったんだもの。
 
 
小保方さんは、科学者ではない、【能力者】だったんだよ
 
 
魔女の宅急便』でキキが飛べなくなる時期がある。
自分を見失った時だろうか、作者の意図はわからないが、とにかく突然、魔法が使えなくなる、あれ。
今まではなんの意識もしてなかったのに、いきなり、どうやっていたか分からなくなる。
その 絶望感 を、みなさん想像してみるといい。
怖いよ。すごく怖いよ。
 
 
論文の画像に不備があったのは事実だ。
実験ノートが甘かったのも事実だ。
そこは咎められるべきだ、と俺も思う。
 
そういう意味では、小保方さんは「科学者失格」であろう。
 
彼女は理化学研究所の研究員であったわけで、その公式発言には常に科学的根拠が求められた。
事柄を「科学的事実」たらしめるには、たくさんの要素が必要だ。
再現性とか、
測定可能性とか、
反証可能性とか、
あとなんだろう、科学者じゃないので詳しくないけど。
 
 
小保方さんのSTAP細胞生成には、そういうものが欠けていた。
にもかかわらず、
小保方さんはその頃に使えた【能力】で実験を成功させた。
 
ひょっとしたら、現在の職に就くまでの成果も、科学的方法でなく【能力】によるものの可能性がある。
 
  
そう、
彼女は非科学的な要素で科学者になってしまった悲劇の人なのだ。
これは、就活でがんばりすぎてミスマッチしてもうた新卒と変わらない。 
 
だからと言って、この世界に「STAP細胞が存在しない」ことにはならない。
「いまの科学では作れないものを1〜2年前の小保方さんが【能力】で作った」という可能性が残るからだ。
これを科学的に否定する術はたぶんない。
 
  
って考えたら、ロマンあるよね。っていう話でした。
 
最初に言ったけど、ものすごくアホな文章ですので、真に受けないでくださいね。
くれぐれも。
いいね!なんてしたら頭悪いと思われますよ

nasuneとスカパーe2とHDDデッキとをうまく繋ぎたい件

家には今、スカパーe2のアンテナがついていて
これがHDD/DVDデッキにつながっている。
で、デッキから出力で液晶テレビにアンテナ線が挿さってる。

ここにnasneを追加したいわけだ。
重要なのは、サムライTVの録画なので、
スカパーe2をうまくnasneに繋ぎたい。
しかし、nasneの裏には入力が1系統しかないわけだ。

PLANEX 全端子電流通過型 高画質・地デジ/BS/CS/110度CS対応アンテナ2分配器+F型ネジ固定式アンテナケーブル(1m) 2本セット PL-ANT02PESET

 
こいつを買ってパラボラと地デジアンテナを混同かなぁ…
うまくいくか やってみるか

働く目的なんて「メシのため」でいいじゃないか

就職活動に望む前の大学生とかを集めて、
「働く目的、みつけよう!」
みたいなセミナーをたまに見かけますよね。

正直、すごい違和感あるんですよね。
そういうワークショップをして、自分なりに働く理由を見つける、ってことは、一見良いことのように見えるのですが、なんか
「特別な意義や目的をもつことが当然、
 よりよい社会人に和るために、そうあるべき」
という空気が、なんていうか、俺はとても嫌いです。
 
本気で思うんですけどね、
働く目的、メシ食うため、でいいんですよ。
 
そうでない、他の理由で働く人も、ヨノナカには沢山いる。
というだけの話なんですよ。
 
 
何がイライラするってね、
「俺は飯のためだけじゃない、
 他にキラキラした働く目的を持ってるんだぜ」
ってだけで、
 ・飯のために割り切って働いている奴よりも優れている
 ・そういう連中より進んでいる、ヨノナカを分かっている
かのような態度をとっていることですよ。
 
俺は、そういう奴とは仕事したくねぇ。
 
ライスワークと割り切ってる奴にだって、プライドも責任感もある連中が沢山いることを、俺は知ってる。
これまで何人も、そういう輝く先輩たちを見てきた。
 
 
「メシのためと割り切っていること」そのものは、決して能力的に劣っているわけでも、生産性が低いわけでもない。
 
それを信じられないやつを、
俺は信じない。

わたしは比較的「差別的」であることと、それを指摘してきた人のこと

昨晩とても興味深いことがあった。
 
一言で言えば、ひとから「疾病者を馬鹿にするな」というような指摘を受けた、というものだ。
ちなみに疾病者本人でなく、第三者から言われた。
その場にいないある人のことを、「陰口で病人扱いしている」という構図になってしまい、その第三者の気分が害された、という感じだ。
 
確かに私に否があったと思う。
表現が雑だった。もうすこしデリケートに考え、行動や発言をせねばならないのかもしれない、と素直に反省した。
不快感を与えてしまってごめんなさい、という気持ちと同時に、そういう指摘をしてくれるひとが身近にいる事には、なんていうか、心から感謝する。
  
で、
なんで、こんな話を、わざわざテキスト化するのか、というとね。
 
ひとつは、たぶん、自分がこんなシチュエーションで人に不快感を与えてしまったことが、少なからずショックだったからなんだと思う。
その衝撃を逃がすためやろう。

もうひとつは、発達障害の知人と長く過ごしたときの経験を思いだしたからであって。
 
以下、ちょっと「そいつ」と自分とのことを少し書いてみる。
あくまでも経験談であり、一般教養や世間の常識とはずれているかもしれない。
さらに言えば、この文章がきっかけで、俺の人格を批判、否定するヒトもいるかもしれない。
(まあ、いつもの事だから、それは大した問題ではないが)

____
  
何年も前のこと。
「そいつ」は、大人になってから、某発達障害であると診断された。
 
「そいつ」はそれを周りに隠した。職を失うのでは、という危機感からだったそうだ。まあ分かる話だ。

「そいつ」は確かに、もともと変わり者扱いされていた。
職場でのことはよく知らないが、異動は多かったようだ。
人とよく喧嘩になっていた。俺ともよく喧嘩になった。
そのたびに、深く気にせずに、普通に仲直りして、普通に関係を保っていたつもりだけど。
 
俺は「そいつ」との関係が、ある程度のストレスだった。
相手を理解しようと務めてはいたが、変わり者の「そいつ」との時間には、理解に苦しむ場面が多かったからだ。

____
 
ある時、診断書のようなものを見せられた。そして一言
「どうやら自分は病気らしい」
とのこと。
 
俺はそのとき、深々と息を吸い、大きな声で、一言、こう言った
 
 「成る程 そうきたか」
 
このセリフを口にしたことが、なんか、強烈に記憶にある。

いろんなことが、妙に、腑に落ちてしまった。
これまでのストレス因子にぜんぶ、強い【免罪符】が付いてしまったわけだ。
 
汚い言い方をすれば、いろんなことを、病気のせい、と片付けた。
 
綺麗な言い方をすれば、そうであるならば、どのように接すればよいかが明瞭になったわけだ。
その後、「そいつ」との関係は、ずいぶん良好になった。
俺がある意味、いろんなことを割り切って?接したからかも知れない。喧嘩もするが、なんていうかクリーンファイトができていた。

その後も、なんだかんだで関係はしばらくの間続き、
諸事情あって、「そいつ」は、もう居ない
 
____
 
俺は「そいつ」を思いっきり病人扱いしたわけだが、不思議なことに、病人扱いする前よりも、病人扱いしたあとのほうが、断然より良い物を得ることができた。
同じように扱うのではなく、あくまで違うもの=「病人」として捉えたからだ。
 
でも俺は決して「そいつ」を馬鹿にしてはいなかった。
そっちのほうがむしろ本人の尊厳のためだ、とさえ思った。
なぜなら、そいつは、病気だからだ。
 
病気だから、いろんなことがうまくいかない。それはしょうがない。
じゃあ、俺は、そんな「そいつ」と、どうすれば目の前の事柄をより楽しめるのだろう、ということをクレバーに考えればいい、そう意識していた。
そう、
男と女がひとつのことをするように、
オトナと子供がひとつのことをするように、
病気と病気じゃない、そいつと俺とが、いろんな事をした、
というだけの話だ。
 
_____
 
そういう意味では、俺は、すごく差別的な人間だ
 
同列、同質であることを求めてない。人には能力差も容姿の差も経済格差もある。ちがうもんは、違うんよ。そう言いながら生きている、
 
でも、違いを分かった上で、違うものたちと同じ世界を生きる【覚悟】が、俺にはある。 
それは喧嘩をすること。
それは妥協や我慢をすること。
それは嫌われたり憎しみ合ったりすること。

ときには共感して笑えることもあり。
ときには自然にすっと通じ合えたり。
ときには愛し合っちゃったり。

そういったことに対する【覚悟】がある。
 
俺は、お前らとは違う、当たり前だ。
そもそもお前も、みんなとは違う。

お前は女なんだよ。
お前はハゲなんだよ。
お前はうつ病なんだよ。
お前は生まれつき脚が無いんだよ。

そのうえで、じゃあ俺たちどうするのか、って話じゃねーのか。
 
事柄によっては、一緒にやるのが無理な場合もある。
でも、差異がわかっているからこそ、やり方をうまく考えられるんじゃねーのか。
 
___
 
俺は 差異 を積極的に強調する節がある。とても差別的な人間だ
 
でも、くれぐれも言いたい。
相手を馬鹿にしてるわけじゃないんだよ。
俺だって馬鹿にされるの嫌だもの。
 
しかしながら、時として、
あなたは人を馬鹿にしている、と言われることがある。
 
これは「言い方」の問題とかもあるのかもしれない。
だとしたら、誤解を避けるための気遣いが足りなかったことは否めない。きちんとデリケートにやらなあかんな、と思う。
今回の事もそうだ。
 
しかし同時に思う。
そもそも、俺が、心の奥底ではほんとうに「馬鹿にしている」のかもしれない。
もしくは、私がそう思っていないだけで、これまでのくだりも全部、世論からすれば「馬鹿にしている」に他ならないのかもしれない。
 
当然ながら「そんなこと無い」と声高らかに酒盗したいけど、やっぱり、俺が間違っている、俺がゆがんでいる可能性だって、ある。
 
____
 
自分で自分を律するために、自分を見つめるっていう作業は常に必要だと思う。
でもセルフチェックには、すぐに限界がくる。
客観的に自分を見つめるなんてのは、半分は茶番みたいなもんだ。実際のところ、この文章も半分はセルフチェック、半分は茶番みたいなもん。
 
自分というものは、所詮、ほかの誰かが認知してはじめて在りうるものだ。
よく自分のことがジブンが一番良くわかる、などというが、あれはちょっとピンと来ない。
 
昨晩遅く、おれの発言に不快感を持ったそのひとが、俺にそういう悪態をついてくれたことは、すごく…なんていうか、意味のあることやなって思う。
そういう場面がないと「自分が間違ってるかもしれない可能性」を忘れてしまいそうだ。
   
 
話をもどすと、俺は差別主義者である。
覚悟と自信を持って、どんどん人々を差別化している。 
しかし、これすらも今後、また変えていくのかもしれない。
いまの自分に、自信も、覚悟も、あるけれども、「間違ってるかもしれない」という気持ちも忘れたくない。
 
一人暮らしよりも、俺は家族と住むほうが良いのかもしれない。
いつも他人の視点を入れることができるから。
 
家族をもつなら、そういうことを話せる、互いのありようを映しあえるような家族がいいな、と思った。
 

勉強できるやつは勉強すべきかという話

おにぎり二万個握った野球部マネージャーがネットで批判されてるらしいですね。
特進クラスに進める学力がありながら、部員のためにおにぎり握るためにそうしなかった、とかなんとか。
 
生産性がどうのとか綺麗事言ってる人も多いけど、半分は妬みですよね。
勉強できるくせに、別のこともやりやがって、さらにそれで目立ちやがって、という。

気持ちは分からんでもないです。
わたしもすぐに人を妬む人間です。はい。
 
 
しかし私的には「そんなことで騒ぐな」という話です。はい。
 
特進クラスに進むか否かぐらいで他人があーだこーだ言うなと言いたい。
二万個っていう数字だって、後から集計したら、全部でそのくらいになるだろう、ってだけの話でしょう。別に根を詰めて一気にその数を握ったわけじゃない。
ざっくり沢山の数字入ってりゃインパクトあるね、という、よくある話ですよ。
中国の反日プロパガンダの際の○○万人虐殺、と大差ない。演出ですよ。
 
また昼間のネタのないワイドショーがこういうものをネタにするのでしょうね。
 
本件も、ワイドショーみて悪態つく主婦みたいな程度の連中が、Twitterで分かったようなことを言って騒いでるだけなわけで。
しかし、それがアクセス数を稼ぎ、ネットニュースになり、グ◎シーやらスマートなんたらに載ることで「今ホットな話題」というラベルがつく。
ナウい展開やね。ナウいビジネスの人々は大喜びやろうね。
 
_____
 
さておき、ちょっと思い出したことがありまして。
個人の自由意志 vs 全体主義集団主義みたいな話になりそうでちょっと嫌なんですが。
 
クルミドコーヒーというお店が西国分寺にあってね。
 
この夏は少しお休みしているけど、「クルミドの朝モヤ」という哲学カフェ企画があってですね。
そこでは皆が、その日に考えてみたい【お題】を提案するわけなんですけど。
私が以前、そこで提案したお題に
 「能力のあるものは、発揮しなければならないのか」
というのがある。
 
これは一年くらい前からわたしの頭の中をぐるぐる回っている哲学的命題であって。
 
勉強ができる奴は特進クラスに行くべきなのか。
身体が丈夫で体格のいいやつは文化部でなく運動部に入るべきなのか。
歌の上手いやつはサラリーマンなどやってないで歌手を目指すべきなのか。

世の中には「埋もれた才能」というのがたぶん沢山あって、それが全て発揮されれば、経済的な生産性も、文化レベルもすごく上がりそう、な気がする。

しかし、「才能があると分かっているけど、それをしない」という人々をどう扱うか、という問題だ。
そもそも才能に気づいていないという場合もあるだろうが、それはさておき。
 
だれよりも足が速い人がいたとする。
ウサインボルトより速い。陸上やればスターになれる。

観光資源としても活用できるかもしれない。でもその人は
「競争が嫌いだし人前に出るのも好きじゃないから陸上とかちょっとやりたくないですね。自分は食べるのが好きなので調理師にでもなります」
 
と言ったとする。さて、我々は
  1, 無理やりにでも走らせるべきか
  2, 調理師目指すことを応援するか
という問題。
 
君はだれよりも足が速いんだよ!と諭すと。
 「はい知ってます、たぶんボルトより速い」
と彼は答える。
なんで走らないの?!と問えば、
 「いや競争とか人前とかマジで勘弁してください」
と答える。
本人の意思を尊重するなら、走らせないほうがいいわけだ。
 
しかし、彼はボルトより速く走れることを、自分でも知っている。
さて、彼は走ったほうが、いいのか。
 
何て面白い問いなのだろうか!!
こういうの考えるのワクワクするよね。
 
 
今回のおにぎり二万個マネージャーの話で、このことを思い出した。
つまり「勉強できるやつは特進クラスに行くべきなのか」という話だ。
おにぎりを握ったのが自分の意志であるか、という部分も関わってきてしまうので、
「本人の意思ならば、選択は自由なのか」
と同時に
「能力を無駄にする選択は損失なのか」
という、二本立ての問題がここにはある。 
___
 
ちなみに
「クルミドの朝モヤ」ではその日、この課題は採用されなかった。

しかしクルミドコーヒーの店主は個別にコメントをくれた。
私の記憶によればこんな感じだった。

「才能や能力っていうのは、ほんとうに自分一人のものなのか。お父さんお母さんのおかげでもあるし、環境がそうさせてくれたのかもしれない。また偶然に突然変異的に備わった、いただきもの?のようなものかもしれない。それを使わずにいる、というのは、個人的には、そうあるべきでないと思う。まして能力を自覚しているなら、それを世界に還元する?ことが、やはり正しいのではないか」

成る程、一理ある。
ギフティッド思想というやつに近い。
才能は神が与えたものであり、世のために還元されねばならない。特筆した才能は早めに抽出し、最大化して、世界を良くするのだ、という思想ですね。アメリカなんかでは盛んですね。
 
最近、アメリカで飛び級で大学進学した日本の子供のおかげで、この言葉は以前よりは知られたかもしれない。
 
 
しかし、これは見方を変えれば、「個人の権利を無視した社会主義全体主義」ともとれる。
ちょっと天才なだけで、社会のために、世界をより良くするために生きることを、周りから求められるわけだ。しかも物心ついた時から。
なぜなら貴方は、神が人類に与えたもうた奇跡の人だから。
そいつ自身の人権よりも、社会にとっての生産性のほうが重視される。
ものすごく抑圧的でものすごく暴力的なもの、とも解釈できるわけだ。
 
ちなみにギフティッド思想は、ほんとにサヴァン症候群くらい異質な才能に適用されるものを本来は指す、という解釈もある。
私はこちらに賛成だ。
ちょっと勉強で秀でたくらいでこの思想を適用すべきではない、と私も思う。
 
なので最近報道されてた日本人少年の件でギフティッドがどーのこーの言ってるのは、私的にはあんまりピンと来ない。
 
あーエリートに対する囲い込み教育そのものを否定してる訳じゃないですよ。
_____
 
ていうかね。
この問題で最もわたしがピンと来ない、というか、「残念」なのは、
「能力のあるものが、それを選ばなかったとき、その人間が【攻撃されがち】である」
ということ。
 
その際に、多くの人は、社会への還元率がどーのこーの、とか、経済的生産性があーだこーだ、とか言う。
それだけや無いやろ?って思う。
妬ましいからやろ?って思う。
それがイライラすんねんて。
才能が羨ましい、妬ましい、て素直に言えよ。て思う。
 
まあ俺がひねくれとるだけかもしれんけど。
_____
 
ちなみにおにぎり二万個マネージャーの話に戻すと、はっきり言うけど、
「特進クラスに行かなかったくらいで失われるような学力なら、
 他人が声を挙げて擁護するほどの価値は無い」
と思う。
ほんとうに生産性を発揮できる人間なら、これから幾らでも発揮できるやろう。
マネージャーとしておにぎり握るという行為は、どうやらそれなりの価値を発揮したようやし。
これから これから。
それだけのこと。
 
ちなみに、おにぎりを握っていたという選択が正しかったのかどうか、は、私にはなんとも言えない。
是非を問えるような立場でもないし。 
 
ただ、女子マネが握ってくれたおにぎりが食べたいかと言われればどうか。
 
食べたい…よね、うん、食べたい。
 
____
  
 
本人がやりたい事ならそれをさせるのが正しいのか、という命題もある。
ちなみにクルミドの朝モヤで
 「主体的なほうが素晴らしいのか」
というお題を提案したことがある。
ちなみにその際には採用されなかった。その日の方々にとって、もっとピンとくるお題が他から出たからだが。
 
今度また誰かと話したいな。こういう話。
能力は必ず発揮されるべきなのか、について。
付随して、主体的なほうが正しいのか、について。
 
すんませんねぇ。俺こんな事ばっか考えてるんすよ。