6mm方眼ノート

方眼紙に書くと、なんとなく、普通の紙に書くよりも整理できるような気がするよね。

今更ながらWindowsの「システムの復元」設定の大事さの件

今更ながらWindows環境がおかしくなった時のために「システムの復元」機能がONになっとるのって大事やな…って思ったわけです。
ちょっとシステム重くなったな、であるとか。
変なアドウェアが入っちゃったな、であるとか。
ごくごく単純に、過去のシステムに戻してしまうだけで、問題解決できちゃったりしますものね。
 
この機能、本来であればデフォルトでONになっており、個別の設定などは必要ないはずなのですが、たまにこれが外れている機体があるようで。

実際にわたしの自宅用マシンではこれが利用できたのですが、某所で利用しているWin7ではシステムの復元が「無効」になっており対応できず…もっとも外れている場合は、手動で設定すればいいのですが。

参考:
Windows7:システムの保護(システムの復元)を設定するには / 教えて!Helpdesk
 http://www.office-qa.com/win/win140.htm

では、何故、外れるのか、という話。
外れている場合の多くは、システムディスク(Cドライブ)が正確に認識できていない事による参照エラーである場合が多いようですね。
推察ですが、ディスクごとコピーしたバックアップデータから復旧させたシステムでよく起こる現象であると思われます。
Cドライブがシステムディスク以外にも二重に存在するかのような勘違いをしてしまう場合があるのですよね。


あと、合わせて気になるのが
「復元ポイントの保存のためにHDD容量どのくらい確保しておくか」
の問題…
実際4GBもあればじゅうぶんだとは思うのですけどね。このために10GBも使ってられない。
あれ、自宅用のAcerここの設定いくつになってるんだろ…急に不安になってきた

参考:
システムの復元ポイントを作成したら、ひとつのポイントの容量はどれくらいになる... /Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1396945343

「頭痛」との長い長い戦いについて

わたしはもう、10年来の「頭痛持ち」なんですね。
変な言い方ですけれども、この「頭痛」との戦いに、わたしの人生はそうとうの時間を奪われてしまっているんです。

頭痛さえなければ、もっと時間を避けることが沢山ある。
もっと進んでいること、取り組めていることがほんとうに沢山ある。
はずだ、と思うのです。

痛みがひどいときは、本当に起き上がることができない。痛みで声を上げることもあるくらい、とにかく、痛い。
今朝もそうだった。
ロキソニン(強力な痛み止めのやつ)を飲もうと、引き出しに手を伸ばしたいのだが、苦痛で体を起こすことができない。何分も力を溜めて、根性一発、全力で起き上がって薬を手に取り、卓上のブリタの浄水器から水を組み、飲む。

そのまま力尽きて倒れる。

次の瞬間、気づくと1時間くらい経っている。
あぁ、11時からの約束にいけない。お詫びのメッセしなきゃ。となる。

気づくと2時間経っている。
あぁ、13時からのイベント遅刻だわ、連絡しなきゃ、となる。

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吐き気をともなう頭痛がはじまったのは、たぶん20歳くらいの時だと思う。

アルバイト中に妙に頭痛と吐き気がする、という経験が何度もあった。若くて体力もあったからだろうか、我慢?で無難にこなせていたのだが。
サラリーマン時代にいろいろと身体を悪くしてからは、とにかく痛みがひどくなった。
光のまぶしさ(というより、強いコントラスト)に耐えられず、夜道で目を開けていられない、という状況が何度もあった。(少し目を開けて、目を閉じて1〜2秒歩く、を繰り返して凌いだ)
小さな音にも敏感になり、時計の秒針はおろか、HDDの振動音で吐き気をもよおすことも多い。

いまでもひどい頭痛のときは、テレビも部屋の照明も完全NGだ。何もできない。
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ぴりぴりした「軽い頭痛」とは、けっこう頻繁に付き合っている感覚もある。
問題は「ひどい頭痛」のほう。リマインダが設定されているかのように、忘れた頃にやってくる。

あまりにひどいので、28くらいの時にct検査をした。
去年もあたらしい医者にかかって、再度レントゲンとCT検査をした。
大きな異常はなし。偏頭痛と緊張性頭痛の併発であることは間違いない、という事だった。

「はっきりとした理由が分からない」っていうのは、逆に強いストレスだ。
脳にコブでもあって、それを取り除けば終わりです、のほうが何倍も安心できる。
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かばんの中には常に痛み止め。
そしてこの秋からは毎晩の予防薬。
ずいぶん頭痛との付き合い方はうまくなったとは思うが、どうにも納得いかないことがある。
それは、決まって、ひどい頭痛が
「休日にやってくる」
こと
だ。

もちろん、仕事をするうえで、平日を外してくれるのは大変ありがたい。

しかし、かんべんしてくれと。俺にも予定があんねんと。これは次の休日にやろう、休みの日に済ませておこう、と思っていたことが全部ふっとぶわけですよ。
なにせ音も光もすべてが刺激として脳に突き刺さってくるため、何もできない。

まあ、ごくごく稀に、動けない頭痛が平日にやってきたときも「仕事あるのになんで平日にくんねん」と思ってしまうので、結局いつ来ても迷惑なだけなんですけれども。
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つまり、頭痛さえなければ
「頭痛にうばわれる時間」

「普通に過ごせる時間」「何かに充てられる時間」
にそのまま置換できるわけだ。

絶対に直したほうがいい。
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「寝かた が悪い」のではないか、という指摘がある。
確かにわたしは、寝るのがすごく苦手だ。
明日のために早く寝る、ということを感覚的にほとんどした事が無いし、ベットの上にいろんなものが溜まりがち(服とか‥)だからだ。

寝方を変えれば治るのか‥もしれない。
そうすることでわたしの人生に何十時間も有意義な時間が増えるのか‥

こりゃ真剣に部屋の中のもの半分くらい捨ててみるかな

どのくらい雪のせいだったかをきちんと考えてみた

きのうは都知事選の投票日だった。
自分なりにきちんと考えて、自分なりの基準で投票した。
投票した手前やはり気になるので、20時少し前にテレビをつけた。
20時。当確の一報。舛添氏大勝の結果を受け、ネット上ではぞろぞろと一部の方々が声を挙げはじめる。
私も人のことは言えない、二言三言、Twitterへのつぶやき投稿で、今回の結果を受けての「うさ晴らし」をしていた一般大衆のうちの一人だ。


TwitterやらFacebook
「ぜんぶ雪のせいだ」
というジョークがわっと自然発生した。
たいへん不評だった例のJR ski skiの広告が、まさかこんな形で日の目を見ることになろうとは。微笑ましい。


でも、一夜明けて今日、選挙結果を改めて見直してみて、
「これちっとも雪のせいじゃないな」と感じてしまった自分がいまして。

まだ正確な数字が出ていないので推定の域を出ませんが、やはり、投票率が低いことと舛添氏の当選の相関性は、そんなに高くないのですよ。

(正確な資料が出たらこの記事にリンク程度でも追加していこうと思いますが、)出口調査による「世代別投票率」と「世代別 誰に票を入れたか」を集計して「世代別平均支持率」を算出し、有権者人口の比率に合わせて計算したとしても、舛添氏の当選はおそらく変わらない。
20代の票では、トップの座を田母神氏か宇都宮氏に譲る可能性はあるかもしれないが、世代別人口比率的を考えると、まず揺るがなかったことでしょう、と。

という、なかば印象論だけで話をしても仕方ないので、現時点でわかる範囲の数字でも、以下に確認してみます。

今回の都知事選の有権者数は1068万5343人。
最終投票率は46.14%とのこと。
白紙などの無効票も投票率に反映されているので、
「投票しなかった有権者」は、約575万5千人いる。

成る程、一見、「雪のせい」に見える。
問題は、「投票しなかった有権者」が、「もし投票していたなら誰に入れたか」なわけで。

上位候補の得票数、つまり「投票した人」の候補者支持率の対比は以下の通り。
舛添要一 2,112,979票 43.40%
宇都宮健児 982,594票 20.18%
細川護熙 956,063票 19.64%
田母神俊雄 610,865票 12.55%


例えば、宇都宮氏が舛添氏を上回るための条件=約113万票の差をひっくり返すことができる条件の例は以下の通り。
※比率はあくまで一例です

投票率がもう10%高く、56.14%だったとき
「その10%の層(約106万票)」の内訳が
宇都宮氏の支持率100%でも不可能。

不可能なのです。

投票率がもう15%高く、61.14%だったとき
「その15%の層(約159万票)」の内訳が
宇都宮氏の支持率が80%のとき、舛添氏の支持率が1.5%以下

現実的でしょうか。

投票率が20%高く、66.14%だったとき
「その20%の層(212万票)」の内訳が
宇都宮氏の支持率75%、且つ舛添氏の支持率が15%以下

ちなみに上記パターンでも、舛添氏以外の票のうち88%が宇都宮氏に集中しなければ無理なわけで。


つまり投票率が高ければ舛添氏にならなかったのか、と言われれば、そうとも言えないほど舛添氏は強かったし、それを都民が選んだわけだ。
ぜんぶ雪のせいか?と言われれば
「晴れても舛添氏が当選した」
可能性はかなり高かったんですね。

気のせいかな、まあだいたいこんな感じよな、とも思いましたが、なぜか突然、山手線の中できちんと確認しておきたくなったので、電卓アプリでパチパチやってみた次第です。



誰が選ばれようが、Twitterやら何やらには批判は飛びます。
批判的視点は常に必要ですし、大衆の業も、有識者の欺瞞も、中二病どもの屁理屈も似たようなものです。

自治体の長を選挙で選んだのですから、あとはリーダーとフォロワーがどのような関係を築き、どう進んで行くのかを考えるべきです。
舛添氏は大臣経験もあり、他の候補者の中でも行政の各方面に(良し悪しは別として)パイプや恩、縁が多い方でしょう。都職員(≒フォロワー)との実務的連携においてはたいへん期待できます。そこには強く期待します。そこには。

上層3.5%を目指すエリート女性たち(仮)

まずは何より【エリートとは何か】という話になってしまいますが。
 
ある社会の中で優秀がゆえに選ばれたもの、みたいな意味だそうです。語源は古フランス語で「選びぬかれしもの」という意味らしいですね。

要するに相対性の産物であるという事には変わりなさそうです。
多数のおまえらの中から、優れた俺が選ばれている、だから俺がエリートでお前らは凡人、という構図ですね。
まあ、この構図は、どんな世界のどのような事柄にもありうることでしょう。
エリートが悪い、などと言うつもりは更々ありません。
(私的には、嫉妬心とか、妬みとか、そういう感情は多少ありますが…)

その座を目指すのも悪いことではないでしょう。「選ばれるため」の競争に参戦し、努力なり何なりするわけだ。
どの世界にも、どのベクトルにおいてもあり得ることです、多いにやればいい。
___
 
今日、こんなニュースをSNSで見かけたわけです。

【専業主婦を養える男性は、3.5%しかいない。男性不況という現実『ホワイト企業』】
http://www.excite.co.jp/News/reviewbook/20140106/E1388949637956.html

ほほう。3.5%ですか。
何を基準に出した数字かは別として、あくまでこの数字が事実であったとしたら、という前提で話を進めましょう。
いまの御時世、専業主婦ができる世帯は全体の3.5%であると

「専業主婦ができる」とはどういうことか。おそらく「共働きしなくても標準的(?)な生活ができる」ということだろう。
それが現代の日本では3.5%しかいないということ。

上位3.5%だよ?
40人のクラスに1人しかいない計算なわけよ。
…いや、違う。記事では「男性は」となっている。つまりひとクラス40人が男女20人ずつだとしたら、その層の男子は2クラスに1人しかいないことになる。エリートですわ。そう呼んでもいいだろう、くらいの希少性ですわ。
たんに高所得であることがエリートの定義であるかどうか、については今は置いといて。

「専業主婦になる」
とはどういう事か、という話です。
その男性に結婚相手として認められ、選ばれなければならない訳だ。ひとクラスに一人もいない存在として、まさに「選び抜かれしもの」=「エリート」でなければならない。

そう、専業主婦志向=かなりハイレベルなエリート志向という事になる。
これを自覚しなければ「専業主婦になりたい」は戯言で終わってしまう。

「専業主婦がいいなー」と気軽に口にする女子たちは、割合的には周囲の女子たち40人弱を蹴落として、やっと一人しかその座を掴めない計算なわけですわ。
本気で「専業主婦を目指します!」と宣言するということは【わたしは上層3.5%のエリートとなるべき女です】と宣言しているに他ならない。
 
自分がエリート志向であると自覚して語るならいい。
エリートになるために必死で努力しているならいい。
そうでない女子は鼻で笑われるのを分かっていて言っているのだろうか。いや、現実(だとしたら)を知らないがゆえに無自覚に無邪気にそう叫んでいる可能性もじゅうぶんあるのか。
 
___
 
当然だが、男性の経済的エリートの中にも、努力してないやつはいる。
親のコネとか。
容姿がずば抜けているとか。
もともとの知性と雇用市場がすさまじくマッチングしたとか。
そういう裕福な方々が、専業主婦の存在を支えてあげられるわけや。

勿論、そうでないエリートもいる。
血の滲むような努力でのし上がったり。
青春のすべてを受験勉強にかけて東大→官僚になったりとかね。

これらは、専業主婦を望む女子にも同じことが言えるわけで

特に努力もせず、苦労なく3.5%の専業主婦になれる女子はいる。
親のコネとか。
容姿がずば抜けているとか。
もともとの適正と主婦業?に求められる要素がすさまじく合致したとか。
まず、そういう層の女性が「選ばれし専業主婦」になっていく。

そして、そうでない専業主婦も存在するわけだ。
血の滲むような努力で女子力を磨いたりとか。
青春の全てを純愛(決してストーキングではない)に注いで嫁さんになったりとかね。


_____

エリート志向、大いに結構です。
がんばって自分を磨くなり、持ち前のバワーで周りの40人を出し抜いてください。
それが「専業主婦になりたい」といことの本質ですわ。

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しかし、念のためもう一度言っておきますね。

ほんとうに所得上位3.5%しか、主婦(主夫)の暮らしを支えられないのだろうか。
それが本当だとしたら、すごく厳しい社会にも思える。学費が高いせいだろうか。共働きでやっと生活できるくらいがこの社会の「普通」であるという事だろうか。
はたしてそんな社会を、皆が望んでいるのだろうか。

普通の人の普通のつつましやかな暮らしの世界には、
専業主婦などというブルジョワ文化は存在しえないのだろうか。

そんなに我々は金を稼がないといけないのだろうか。
そんなに我々は金を使わないといけないのだろうか。

何かが、おかしい。うまく言えないけど。
 
 
まぁ、たぶん数字が間違ってるんだよね。
もう一度きちんと調べるなりして、この調査における「専業主婦を支えられるのは全体の3.5%」
についての根拠はきちんと確認しておこう、と思います。
 
元の調査じたい、「ホワイト企業」を抽出して羅列する、というある意味“下衆い”レポートですし、きっとくだらない調査のアホみたいな基準によるバカみたいな根拠なのでしょう…

【そうであってほしい】とボクが望んでるだけかもしれません。
だって なんか 嫌やもん そんな世の中。

1260円を払って買わないと中身が読めない、というのもなんかちょっと下衆い。
エリート層なら屁でもない値段なんかなぁ。
1260円かぁ。
高いなあ。
 

思い出の付箋の話

PCのHDDの容量に余裕がない。

外付に逃がせばいいだけの話かというと少し違っている。
なんというか、妙に「写真」の量が多い。

最初に買ったソニーサイバーショット以来のデジタル写真は、全て残っている。12年分…?くらい?だろうか。そのあと買ったデジカメの写真も、携帯電話の写メフォルダ内のものも、全て残っている。
何千枚のではたぶん足りない、万桁の写真たちだ。

大事な写真もある。
変わりゆく地元の写真。
旧友たちとの写真。
あーそういえば手伝ったなあこんなイベント、の写真。
津波のあとを歩いた写真。
などなど、などなど。

反面、これ必要なんかなあ、消してもいいんちゃうかなぁ、というものも多くあるようだ。
1に、ヤフオク出品用の写真。
2に、iPhoneの写真フォルダとの同期フォルダ。

ヤフオク出品したものをいつまでも写真でとってある。
…なんに使うねん、これ。よっしゃ捨てよう。

しかし「iPhoneの同期フォルダ」これが面倒だ。
iPhone4時代のものからずっとある。
そもそも昔はフォルダ分けがiPhone上で出来なかったこともあり、特になんの写真だがわからない?ものが大量に、ただただ、iPhone待避という名目でそこにある。


現役のiPhone5の中には、今日時点で写真が8445枚あるが、もちろんフォルダ分けはされてない。
iPhone4の頃から移管してきた頃のものもある。
幾つかはフォルダ分けされた状態でPCとiPadに入っているようだが…

てことは重複もあるわけだ。きっと

詳しくはわからない。
ああああめんどくさ。

消そう。
もう具体的なトピックスに紐づくもの以外は消そう。
思いつく限りのフォルダつくって、そこに該当しなきゃ消そう。
そのフォルダだけiPhoneと同期すればいいや

「写真は 思い出の付箋」
綾瀬風香さんの名言だ。
(出展:あずまきよひこよつばと!』)

ごもっともである。
その写真をちらり見るだけでその日の記憶がよみがえる。

いや、しかしね。

撮りに撮りまくった数万枚の写真があるとして、それを見なおしたとして、
「うわー懐かしいな、こんなのあったなー」
って確かに思えたとして、

うーん。
確かにぶわっと蘇える記憶はあるよ。
あるけど。
なんか無理やり呼び出してるっていうか、なんていうか。例えば一年に一度、写真を見直すことで、ひととおりぜんぶ思い出すことが出来るとして…それって良いことなんかなあ?

その思い出 ほんとに 全部 いる?って思ってしまう。
ヤフオクで売ったものとか笑


【付箋】はやたらめったら貼るもんではない。
大事なところに貼るものだ。
仕事とか勉強でも、べたべた貼りまくると結局ぜんぶ消化できなかったりするのがオチだ。

やっぱ具体的なトピックスに紐づかない写真は消そう。



でも、消す前に、最後に観よう…
ってやってたら結局おおむね消せないよね、っていう「大掃除あるある」ですね。

嫌い、という感情

うまく言えないけど、なんか最近、ある程度「人に嫌われたい」と思うようになってきた自分がいる。
あぁ、こりゃ 敵 作るんだろうなぁ、という行動や発言を、意図的にすることが、しばしばあるのではないか、と自省している。

私には「好きなもの」が多い。おそらく多趣味と言われる側の人間であるし。
好きなものは好きだとはっきり言いたい。
そのぶん、嫌いなものは嫌いだなー、と強く感じてしまう。
その感情は、基本的には押し殺すべきなのだろう。
社交辞令としてもそうだろうし、周囲にネガティブな因子を振り撒かないように、であるとか、自分自身が嫌われないように、といった合理性もあるだろう。

しかし最近の私は、なぜだろう「嫌い」を押し殺さない。
別に尖った人間をアピールしたいわけではないが。
いや、したいのかもしれない、無意識には。
人によっては中二病の2ちゃんねらのようにも見えてしまうかもしれない。

なんか「好きなものを好き」という気持ちの裏側で、同じだけ「嫌いなものは嫌い」という営みが動いているような気がしている。
脳内で、というより、胸の中で。

_____


好きなものを好きと言って、好き合いたい、好かれあいたい。当然、わたしも、そうだ。

そんな気持ちばかりが世に溢れるなかで、ふと思う。
人間は好きなものがあるぶん、嫌いなものだってあるだろう。嫌いと言いたい場面だってあるだろうし、嫌われることだってあるだろう。望むか望まないかは別として、そういう汚いものも、常にこころに持ち続けるものだ。

それに抗うかのように、嫌われないように、損をしないように、ネガティブ因子を振りまかないように、明るくポジティブに、いい人を振舞うべきだ、という理屈もあるでしょう。
「好きなものを好きだと素直に言うのは素晴らしい。でも、嫌いなものを嫌いというのはやめなさい」
なんか小学校の先生みたいな言い回しになっちゃうなあ…

_____

なんか、うまく言えてるかは微妙なのだが、わたしはどうしても「嫌い なものは、嫌い でいたい」。

ある程度の人を嫌って、有る程度の人に嫌われたほうが、その人から発せられる「好き」の気持ちも【ホンモノ】のような気がしてならない。
そんな自分であることを、ある程度、周りの方々にも分かって欲しい。

それが社会人として不適正であるならば、わたしは不適正者であることを受け入れるしかない。


好き という気持ちは、嫌い と切り離して独立して存在しうるか、否か。
私も、しうる、と思う
嫌い、という対概念との相対性でしか 好き が存在し得ない、ということになってしまったら、「好きな食べ物は多いが、嫌いな食べ物はありません」という図式が成り立たなくなる。

…まあ「好き嫌いなく食べる」のは別の話かもしれないが。
もっと嗜好性の高い文化的なもの…で比喩できないものかな。ちょっと思い浮かばないけど。

要するに、相対主義 なのかなぁ、私は

_____

それにしても、私はなぜ最近になって「あぁ、こりゃ敵作るだろうなぁ」的な発言をしたくなっているのだろう。
感性における「ホンモノの 好き」を求めるためだろうか。
それとも心が病んでいるだけか。

後者かもなぁ、って思う。体調とかが悪いとネガティブになるしね。


だとしたらネガティブ振りまいてるだけの迷惑野郎じゃねぇか。社会人として不適正ですね。

あーなんか受け入れるって言っちゃったなぁ…さっき…

恥ずかしい日本人の話

ハフィントン ポストの記事にこんな見出しが踊った

「AKBがASEAN首脳の前でダンス「北朝鮮喜び組のようだ」非難の声も 」
http://www.huffingtonpost.jp/2013/12/15/akb48-asean_n_4450956.html

これに同調して「日本の恥だ」みたいなコメントをする人々がいる。
アホか、と一蹴したい。
何がどう日本の恥なのか、ちょっときちんと説明してごらん。と。
 
ニュース記事の見出しが煽るのも悪いんだけど。
お偉いさんの前でAKBが踊っているのを見て
北朝鮮喜び組みたい」→「非常識、日本の恥」
としか連想できないとは、思考の貧弱さに反吐が出る。
 
来賓のおもてなしで、若い姉ちゃんが歌い踊る。
何がおかしいの?
そんなことに目くじら立てても嘲笑を買うだけだろう。
 
 
黒髪の若い娘が並んで唄って踊る「光景」は、確かに、ワイドショーでいじられていた北朝鮮の「喜び組とされる人たち」と視覚的に共通するものがある。

それが何なの?
だから批判するの?
喜び組を連想させるような見た目だったから?
ならず者国家の国策と似たようなことを日本政府がするんじゃない、と?
 
ゴシップ大好きなあなた達の脳が、
わぁー なんか喜び組みたーい、
北朝鮮みたーい、
恥ずかしいね− 品性を疑うねー
と、勝手な連結をしたい だけじゃなくて?
 
___


こんなもん深い意味なんかねぇーんだよ。
メシ会の余興なんだから。
いま日本で流行ってる人たちですよ、ご覧あれ、でいいじゃん。こんなもん。
 

激しく問いたい。
竜宮城で鯛やヒラメが舞い踊ってるのは、どう思うのですか?
沖縄サミットで安室奈美恵が唄って踊って おもてなし した事については、どう思うのですか?
 
「そういうのとは違う!」という人たちには「どう違うのですか」と問い詰めたい。まさか「見た目が喜び組みたいじゃん」などとほざくんじゃあるまいね。
 
どっちが日本の恥だよ。
 
まあ、日本国民がみな、そんな愚か者だ、とも思わないですけれどもね。
ネットの一部の人間だけが騒いでいるのだと思いたいですけれどもね。
 
最近のワイドショーはネットからネタを拾うからなぁ…
これを昼のテレビとかが拾って、
「ほら!なんか喜び組を連想させるものがあるでしょう」
などと言い出さないことを祈るばかりですわ。