6mm方眼ノート

方眼紙に書くと、なんとなく、普通の紙に書くよりも整理できるような気がするよね。

「主体的な学び」という言葉は美しい

「主体的な学び」
というコトバそのものは前から耳にする。近年の学校教育だと、「学び合い」の実践が主体性を育てる、などという言説も多く目にとまるようになってきた。
反面、集団授業の講義形式が主体性を殺す、などととなぜか無下に罵られたりするのもたまに見かけた。マイケル・サンデルが流行ったせいで変に煽られた層が出ただけであろう
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「主体的な学び」。いい響きだ。
確かにこれが、学習者にとっても、教育者にとっても、最高に効率もいいだろうし、互いのその場の精神的満足度も高いだろう。
そういう意味では、学びという行為は主体的であってほしい。

問題点を敢えて上げるなら、実際に主体的に学ぶためには、以下が満たされる必要があることだ
― 何よりまず学習者が、個体として、主体性を発揮できる存在であること
― 学習行為、もしくは学習内容が、学習者にとって主体的に取り組もうと思える事柄であること
― それが継続的に実践できる環境や条件があること

つまり「主体的に学べる」場面がありうると同時に、主体的でない学びの場が世の中にごまんとあるわけだ。

そんなことはない!すべての人間は能力的には主体的に学べるはずだ!

そんな反論が聞こえてきそうだが、「その場において、その事柄を、主体的に学べない人」なんてのはごまんといる、という意味です、悪しからず。

とすると、新たな問題がふたつ。
1)主体的に学べない人に、記号としての「主体的な学び」を押し付けるとどうなるのか
2)受動的に・強制的に学んで育っていく人間は、主体的に学ぶ人間と比べて優劣があるのか

「主体的な学び」なんて興味深い事柄なのだろう。
ちょっと誰かとこの話を酒でも飲みながらしてみたい。
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わたしは最近、学習者としては、けっこう麻痺してきているかもしれない。まさに学びの姿勢がここ1,2年でどんどん弱くなっている。

勉活?せなあかんのかなぁ。

いつまで人は学びつづけるのだろうか。
いつまで人は育ちつづけるのだろうか。
育ち と 学び は別のものではあるが、なんて興味深い事柄なのだろうか。

Facebookって口に出して言ってみてほしい話

わたし、今ちょっと、細かいことでじぶんが嫌いになってるのですよ。

Facebook」ってあるじゃないですか。
…すみません、ちょっと、「Facebook」って口に出して見てくれませんか?
 
せー のっ、「Facebook
 
ありがとうございました。笑。


その際の【発音】についてなのですが。
あなたの発する「Facebook」には、どこにアクセントがありますか?っていう話なんですよ。

少し前に、俺の発音が“なんか気になる”って言われたわけですよ。

金曜日の深夜だったか、お笑い関連でUst配信に付き合わされた時のこと。
どこぞの2ちゃんねらが、コメント欄にて
「お前のFacebookの発音がなんか気になる」
と突っかかってきたわけです。

…? と思った私は隣に座る配信主に確認してみた

のぶさん:「F↑ac↓eb→ookの発音?」
配信主 :「Fa→ce→b→oo↓kでしょ」
のぶさん:「F↑ac↓eb→ook、」
配信主 :「Fa→ce→b→oo↓k、」
のぶさん:「?」
配信主 :「?」

確かに違う。明らかに違う。
俺の発音が、なんかちょっと、気取った感じになっとる。
なに俺、F↑ac↓eb→ookて。
ネイティブ気取か。

でも俺、それこそ使い始めた頃からF↑ac↓eb→ookって言ってる気がするんですよね
何処かで誰かがそう言うのを聞いたからだろうか、本当に疑いもなくF↑ac↓e→bookであると認識していたわけです。


Facebookページ】のときは
「Fa→ce→b→oo→kペー↓ジ」
って言ってるくせに。

うわぁぁぁあぁ なんか気持ち悪い
じぶん自身の発音が

カタカナ語として日本に定着してるくせに、ネイティブっぽい発音する奴がたまに居るわけですよ。
英語教育の進んだ高校のひととか、TOEIC受けたひととか。
まあ別に知ったこっちゃないですし、個人的にも発音そのものはさほど気にならないのですが、
「棒読みした方が伝わりやすいかもしれない場面」
においても、そういうネイティブじみた発音をしている奴をたまに見かけるわけです。
その際には、ああ、こいつコミュニケーションスキルどないやねん、と感じてしまうわけですが

何を隠そう、
俺自身がFacebookについてのみ
「F↑ac↓e→book」
言うてるがな。あかんがな。

いや あかんのか?
これ本当に俺があかんのか?
日本人の皆々様は実際のところ「Facebook」をどう発音しているのか?

NHKのアナウンサーとかの発音、どうなんやろう。
聞いてみたい。

社会的にマイノリティであるかどうかも確かに気になるところですが、
それを待たずしても「Facebook」においてのみネイティブ気取りな感じになっちゃってる俺。
なんか気持ち悪い。
F↑ac↓e→bookて。
なんやねんな。俺。

ライフログとSNSの話

アメリカ発のFacebook上での「親密度」を見える化する手法、なんてのが最近いくつかあるらしい。
ギガジンなんかは「Facebookを見るだけで、だいたい誰と誰が恋人か分かる」なんていう見出しで記事にしていたが、
…まあ日本ではそんなに流行らないだろう。
…アメリカでもそんなに流行らないだろうけど。

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Facebookの情報なんて「目的に応じて恣意的に抽出された事柄」でしかない。
目的を果たすために有益な情報はより良く着色して掲載されるし、都合の悪いことは全て切り落とす。

いわば求職時のポートフォリオ、履歴書のもうなものだ。

言うまでもなく「いいね!」やシェアも同義だ。
誰が誰に「いいね!」したかは、半公共の記録として残る。その記録を残すことが、Facebookの利用目的に対して都合がいい場合のみ、「いいね!」も、シェアも行われる。
人や相手に対してではなく、こんな記事にいいね!してる自分イイネ!というのが本質だ。

そんなもんが「ライフログ」な訳がない。

人生には無駄なものも嫌なことも沢山ある。それに目をつぶって何がLIFEだというのか。

Facebook上の親密度の「読み方」もここに大きく関連する。
SNS上における親密度の高さは「ある【思惑】の対象として重視されている度合い」にしかならない。その人の人間関係の深さや交流の量、質とイコールではない。
もちろん無関係であるはずもないので、何かしらの関連、相関関係は生じるだろうが。

ちなみにここで言う【思惑】は、ひとつとは限らないし、自覚的とも限らない。

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こんな製品が発売されたらしい
http://japanese.engadget.com/2013/11/11/narrative-1-2000/
襟につけてれば30秒に一枚、勝手に写真を取りまくるそうだ。

成る程、このカメラの中身は、ライフログ、と呼ぶに相応しい。カメラ回しっぱなしの状況は「撮影」が「恣意的動作ではない」ところがいい。

しかし、カメラから写真を出力→ストレージする部分が手動の操作、しかもUSBで接続する必要があるらしい。
ダメダメだ。意味が無い。
「恣意的な行為を挟まなければ閲覧できる状態にならない」時点で、(少なくともSNSよりは)純粋なライフログはカメラの中にしか存在しない。

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知る限りでは、現状において「ライフログ」と呼べるものをSNSやローカルストレージに効率良く蓄積する商品やサービスは存在しない。

そんなもの要らない、のかもしれないけど。

(米軍はすでに国民のライフログとってそうだけど)

「社会人」として生きるということのひとつの考察

「このご時世、普通では社会で生き残れない」
という言い方をする人がいる。
具体的には、就活支援サークルであるとか、キャリアアップなんたらといった場所に結構いる印象だ。
 
正直な印象としては、そういう方々には
「普通」
という言葉の意味、また
「社会」
という言葉の意味を、改めてきちんと考えてみることを勧めたい。
 
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競争に乗らない連中を指して
「システムに埋没した退屈な生き方だ」などと批判する人がいる。
 
いやいや。こっちのセリフだよ、と言いたい。

仕組まれた不必要な競争の中で「特別であること」を過度に求められ、そうでない人間を卑下することで、あたかも真実に取って代わろうとしている。

山盛りの餌で飼い慣らされた、
「システムに埋没した家畜」
はそちら側なのだよ、と言いたい。

気づかないのは家畜が故のことか。

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すげえ奴に出会って、すげぇ奴に憧れてすげぇ奴になりたくてすげぇ頑張る人々を悪く言う気はない。

だけど、過半数の人間はそんな生き方に向いてない。特にそんなことを望まなくても、人は普通に、きちんと生きていく。
 
それを可能にしているのが
「社会」
なのだということを忘れてはならない。
 
我々は社会人である。
野生の獣でも肥やされた豚でもない。
それを自覚して生きることだ。
 
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「キャリア教育」なるものが一部で盛り上がっている。
関係者各位は、どうか忘れないでほしい。
社会 とは何であるかを。
社会人 という言葉の意味を、そこでもう一度きちんと考えてほしい。

 

かつて日本はオリンピック開催権を返上したことがある訳だが

午前五時頃。
ブエノスアイレスからの生中継。
ウォォッという完成。
2020年、東京での夏季五輪開催決定。
おめでとう + ありがとう。
この日を待ってたよ。

さて、五輪の誘致に成功した事を受け、早速、最終プレゼンでの安部首相のスピーチを中心としたネガティブキャンペーンが始まった。

うん。
これでいい。
これこそ望んでいた状況。

国際社会に対してあんな胡散臭い啖呵を切ってしまった以上、もう誤魔化しは効かない。これで国外(主にこれまで核汚染問題に敏感でなかった国々)からも「日本は本当に安全なのか」の多角的な検証の目が向けられることになる。

ちなみに日本は「開催権を自主的に返上した」歴史を持つ国であるわけで。
(1940年大会、第二次世界大戦下の情勢で国際的祭典の実施に無理があったため、ヘルシンキに譲った)
嘘や不誠実があれば、その程度によっては、二度目の返上という大きな歴史的汚点を残すことになる。

さあ日本政府よ。
国際世論に真摯に対峙してください。
みんなの命と地球の平和とスポーツ文化のために。

Suica忘れたせいで身体性の重要さ(の一端)が身に沁みる

本日カードケースを持たずに家を出てしまったので、久々に切符を買って電車に乗ったわけですが。
なんか小銭で切符を買うことで、いつもより【運賃】というものが見にしみる。
あぁ、160円だなあ。みたいな。

やっぱり「身体性」って大事なんやね。
100円と、50円と10円が指からするっと落ちていく。

記録と数字だけでやり取りするだけでなく、
小銭入れから160円を選びとり、小銭をチャリンと投入口にいれたり、
千円冊を一枚一枚、捲って数えたり、
するのが、なんか「お金払ってる感」があって良いな、と感じた。

しかし、どちらが便利かと言われれば、勿論カードでピッ、のほうが手間はかからない。
私だって日頃はSuicaでピッ、の人だ。
でも、思い返せば、あの行為は1円でも1万円でも「身体性に差がない」のだよなあ、と考えさせられる。
せいぜい、わずかに視覚でデジタル表示を確認するくらいだ。

現金で払う時は、その差を目でも指でも大きく感じられる。
わずか重量1gの一円玉を小銭の中からつまみ出すことと、ほぼ同じ重さながらあれだけ大きくて気品のある一万円札を財布から取り出すこと、
そこにある「身体性の差」。

あと、数枚の紙幣を自分の指で数える「動き」、あれがなんとも言えずいいですよね。
…2、3、4、っていう、あれね。
目でみて、指で感じて、お金を払う。

これを面倒くさいと思うか、あぁ なんか良いな、と思えるかは、行動主体(この場合はわたし)の性格だったり、その瞬間のアンテナ感度…心のゆとり?にも依るのかもしれないけれど。

そう考えると、テレビゲームの身体性も危ういですね。
コンシューマゲームのユーザーはスマホゲームに流れつつあることで、
これまでも鈍かった「ボタン押す」だけの身体性(アナログスティック除く)が、タッチパネルのタッチ、スライドに全面的に置き換えられている。

あんまり変わらんじゃないか、と思われるかもしれませんが、
メールを打つときも、Webを見るときも、ゲームをするときも、
【同じ手触りの画面を、ほぼ同じピッチで触っている】
わけで。

ヒトの暮らしの身体性の幅は、ユニバーサルデバイスの登場によって著しく均一化されている。
ニュースを読むとき、遅刻の連絡をするとき、パワプロするとき(他のゲームでもいいけど)、
以前はそれぞれに、違うものを触り、違う強さで、違う動きをしていたはずだ。
今は指先でガラスをなぞる、という均一な身体動作ですべて一元化されている。

そういえばスマホをカラオケのリモコンにするアプリがあるな…私も利用したことがある。
Androidでは赤外線でテレビのリモコンも操作できるようだし。
成る程、スマホに一元化できるのは便利ではある。だ。ただ、ここでも独立した身体性(デンモク触る、リモコン触る)は失われている。

自宅にPCがあっても、なんとなくスマホでネットやテキスト打ちをしてしまっている人も多いだろう。
PCの立ち上げ時間や常に手元にある手軽さなどがその理由として挙げられるだろうが、
もし、
【同じ手間、同じ作業量であるのなら、均一化された身体動作のほうが楽だから】
PCに手が伸びてない、という視点もあるだろう。

身体性の均一化は、「便利」を求めた結果としてのひとつのシンボルだろうが、なんつーか、本当にこれでいいのかな、という怖さのようなものはある。

…みたいな事を、
久々に切符を買っての山手線ホームでずっと考えてました。
カードケース忘れたばっかりに。
あと、小銭を払う事を、あぁ、良いかも、と感じる事ができた自分自身の問題もあるのでしょうね。

ラジオに流されてみる

今朝の通勤時のこと。
radikoつけたら「あまちゃん」の話題。のぶさんは一度も観たことがないんですよね。
潮騒のメモリーっていう曲を初めて聴いた。良くも悪くも、昭和っぽいっていうか。団塊の世代には懐かしいのやろか。私にはピンとこない。


やはりラジオはいい。
予期しない情報が飛び込んでくる。

なんだかんだで、ラジオから得た知識・情報はけっこうある。
美木良介のロングブレスダイエットの詳しいところとか。
文学賞をとったのが現役の食堂のおばちゃんである件とか。
阿部首相がサミットの前に硫黄島に立ち寄り、まだ回収できてない日本兵の遺骨が埋まっている滑走路に膝をついて何かつぶやいていたとか。

何度でも言おう、やはりラジオはいい。
興味が無いことも一方的にズバズバ流れてくる。

テレビやラジオはリアルタイムなインタラクティブ性が低い。参加型の企画や番組はあるにはあるものの、おおむね一方向的なメディアだ。
その「内容」について取捨選択するのは自分ではない、あくまで作り手の側だ。受け取るものの内容や事柄について、番組やチャンネルというレベルでしか選べない。

何も得られないかもしれないし、すごく勉強になるかもしれない。
だからこそ、いいんだよね。ラジオとかは。


時にはiPodで自分でつくったプレイリストを再生するときもある。
まあ、なんつーか、楽しいよね。
当たり前だよね。
だって、自分が楽しめるものを、自分が楽しみたいように組んだんだし。

分かってんねん、楽しいのは。
そのぶん「得るものの 限界 もある程度 見えちゃってる」という一面もあるかもしれない。

自主的、自発的なことは確かに素晴らしい。
能動的に事柄をコントロールできるのは確かに効率的だし気持ちいい。

けれども「流れに委ねる」っていう状態を、わたしは生活の中に常に持っていたい。
皆にも是非もっておいて欲しい、と思う。


そこにある世界なんて、まだまだ広い世界のなかの、ほんのひときれ、でしかない。新しい世界は不意にやってくる。
時には電波に乗って。