働く目的なんて「メシのため」でいいじゃないか
就職活動に望む前の大学生とかを集めて、
「働く目的、みつけよう!」
みたいなセミナーをたまに見かけますよね。
正直、すごい違和感あるんですよね。
そういうワークショップをして、自分なりに働く理由を見つける、ってことは、一見良いことのように見えるのですが、なんか
「特別な意義や目的をもつことが当然、
よりよい社会人に和るために、そうあるべき」
という空気が、なんていうか、俺はとても嫌いです。
本気で思うんですけどね、
働く目的、メシ食うため、でいいんですよ。
そうでない、他の理由で働く人も、ヨノナカには沢山いる。
というだけの話なんですよ。
何がイライラするってね、
「俺は飯のためだけじゃない、
他にキラキラした働く目的を持ってるんだぜ」
ってだけで、
・飯のために割り切って働いている奴よりも優れている
・そういう連中より進んでいる、ヨノナカを分かっている
かのような態度をとっていることですよ。
俺は、そういう奴とは仕事したくねぇ。
ライスワークと割り切ってる奴にだって、プライドも責任感もある連中が沢山いることを、俺は知ってる。
これまで何人も、そういう輝く先輩たちを見てきた。
「メシのためと割り切っていること」そのものは、決して能力的に劣っているわけでも、生産性が低いわけでもない。
それを信じられないやつを、
俺は信じない。
わたしは比較的「差別的」であることと、それを指摘してきた人のこと
昨晩とても興味深いことがあった。
一言で言えば、ひとから「疾病者を馬鹿にするな」というような指摘を受けた、というものだ。
ちなみに疾病者本人でなく、第三者から言われた。
その場にいないある人のことを、「陰口で病人扱いしている」という構図になってしまい、その第三者の気分が害された、という感じだ。
確かに私に否があったと思う。
表現が雑だった。もうすこしデリケートに考え、行動や発言をせねばならないのかもしれない、と素直に反省した。
不快感を与えてしまってごめんなさい、という気持ちと同時に、そういう指摘をしてくれるひとが身近にいる事には、なんていうか、心から感謝する。
で、
なんで、こんな話を、わざわざテキスト化するのか、というとね。
ひとつは、たぶん、自分がこんなシチュエーションで人に不快感を与えてしまったことが、少なからずショックだったからなんだと思う。
その衝撃を逃がすためやろう。
もうひとつは、発達障害の知人と長く過ごしたときの経験を思いだしたからであって。
以下、ちょっと「そいつ」と自分とのことを少し書いてみる。
あくまでも経験談であり、一般教養や世間の常識とはずれているかもしれない。
さらに言えば、この文章がきっかけで、俺の人格を批判、否定するヒトもいるかもしれない。
(まあ、いつもの事だから、それは大した問題ではないが)
____
何年も前のこと。
「そいつ」は、大人になってから、某発達障害であると診断された。
「そいつ」はそれを周りに隠した。職を失うのでは、という危機感からだったそうだ。まあ分かる話だ。
「そいつ」は確かに、もともと変わり者扱いされていた。
職場でのことはよく知らないが、異動は多かったようだ。
人とよく喧嘩になっていた。俺ともよく喧嘩になった。
そのたびに、深く気にせずに、普通に仲直りして、普通に関係を保っていたつもりだけど。
俺は「そいつ」との関係が、ある程度のストレスだった。
相手を理解しようと務めてはいたが、変わり者の「そいつ」との時間には、理解に苦しむ場面が多かったからだ。
____
ある時、診断書のようなものを見せられた。そして一言
「どうやら自分は病気らしい」
とのこと。
俺はそのとき、深々と息を吸い、大きな声で、一言、こう言った
「成る程 そうきたか」
このセリフを口にしたことが、なんか、強烈に記憶にある。
いろんなことが、妙に、腑に落ちてしまった。
これまでのストレス因子にぜんぶ、強い【免罪符】が付いてしまったわけだ。
汚い言い方をすれば、いろんなことを、病気のせい、と片付けた。
綺麗な言い方をすれば、そうであるならば、どのように接すればよいかが明瞭になったわけだ。
その後、「そいつ」との関係は、ずいぶん良好になった。
俺がある意味、いろんなことを割り切って?接したからかも知れない。喧嘩もするが、なんていうかクリーンファイトができていた。
その後も、なんだかんだで関係はしばらくの間続き、
諸事情あって、「そいつ」は、もう居ない
____
俺は「そいつ」を思いっきり病人扱いしたわけだが、不思議なことに、病人扱いする前よりも、病人扱いしたあとのほうが、断然より良い物を得ることができた。
同じように扱うのではなく、あくまで違うもの=「病人」として捉えたからだ。
でも俺は決して「そいつ」を馬鹿にしてはいなかった。
そっちのほうがむしろ本人の尊厳のためだ、とさえ思った。
なぜなら、そいつは、病気だからだ。
病気だから、いろんなことがうまくいかない。それはしょうがない。
じゃあ、俺は、そんな「そいつ」と、どうすれば目の前の事柄をより楽しめるのだろう、ということをクレバーに考えればいい、そう意識していた。
そう、
男と女がひとつのことをするように、
オトナと子供がひとつのことをするように、
病気と病気じゃない、そいつと俺とが、いろんな事をした、
というだけの話だ。
_____
そういう意味では、俺は、すごく差別的な人間だ
同列、同質であることを求めてない。人には能力差も容姿の差も経済格差もある。ちがうもんは、違うんよ。そう言いながら生きている、
でも、違いを分かった上で、違うものたちと同じ世界を生きる【覚悟】が、俺にはある。
それは喧嘩をすること。
それは妥協や我慢をすること。
それは嫌われたり憎しみ合ったりすること。
ときには共感して笑えることもあり。
ときには自然にすっと通じ合えたり。
ときには愛し合っちゃったり。
そういったことに対する【覚悟】がある。
俺は、お前らとは違う、当たり前だ。
そもそもお前も、みんなとは違う。
お前は女なんだよ。
お前はハゲなんだよ。
お前はうつ病なんだよ。
お前は生まれつき脚が無いんだよ。
そのうえで、じゃあ俺たちどうするのか、って話じゃねーのか。
事柄によっては、一緒にやるのが無理な場合もある。
でも、差異がわかっているからこそ、やり方をうまく考えられるんじゃねーのか。
___
俺は 差異 を積極的に強調する節がある。とても差別的な人間だ
でも、くれぐれも言いたい。
相手を馬鹿にしてるわけじゃないんだよ。
俺だって馬鹿にされるの嫌だもの。
しかしながら、時として、
あなたは人を馬鹿にしている、と言われることがある。
これは「言い方」の問題とかもあるのかもしれない。
だとしたら、誤解を避けるための気遣いが足りなかったことは否めない。きちんとデリケートにやらなあかんな、と思う。
今回の事もそうだ。
しかし同時に思う。
そもそも、俺が、心の奥底ではほんとうに「馬鹿にしている」のかもしれない。
もしくは、私がそう思っていないだけで、これまでのくだりも全部、世論からすれば「馬鹿にしている」に他ならないのかもしれない。
当然ながら「そんなこと無い」と声高らかに酒盗したいけど、やっぱり、俺が間違っている、俺がゆがんでいる可能性だって、ある。
____
自分で自分を律するために、自分を見つめるっていう作業は常に必要だと思う。
でもセルフチェックには、すぐに限界がくる。
客観的に自分を見つめるなんてのは、半分は茶番みたいなもんだ。実際のところ、この文章も半分はセルフチェック、半分は茶番みたいなもん。
自分というものは、所詮、ほかの誰かが認知してはじめて在りうるものだ。
よく自分のことがジブンが一番良くわかる、などというが、あれはちょっとピンと来ない。
昨晩遅く、おれの発言に不快感を持ったそのひとが、俺にそういう悪態をついてくれたことは、すごく…なんていうか、意味のあることやなって思う。
そういう場面がないと「自分が間違ってるかもしれない可能性」を忘れてしまいそうだ。
話をもどすと、俺は差別主義者である。
覚悟と自信を持って、どんどん人々を差別化している。
しかし、これすらも今後、また変えていくのかもしれない。
いまの自分に、自信も、覚悟も、あるけれども、「間違ってるかもしれない」という気持ちも忘れたくない。
一人暮らしよりも、俺は家族と住むほうが良いのかもしれない。
いつも他人の視点を入れることができるから。
家族をもつなら、そういうことを話せる、互いのありようを映しあえるような家族がいいな、と思った。
勉強できるやつは勉強すべきかという話
おにぎり二万個握った野球部マネージャーがネットで批判されてるらしいですね。
特進クラスに進める学力がありながら、部員のためにおにぎり握るためにそうしなかった、とかなんとか。
生産性がどうのとか綺麗事言ってる人も多いけど、半分は妬みですよね。
勉強できるくせに、別のこともやりやがって、さらにそれで目立ちやがって、という。
気持ちは分からんでもないです。
わたしもすぐに人を妬む人間です。はい。
しかし私的には「そんなことで騒ぐな」という話です。はい。
特進クラスに進むか否かぐらいで他人があーだこーだ言うなと言いたい。
二万個っていう数字だって、後から集計したら、全部でそのくらいになるだろう、ってだけの話でしょう。別に根を詰めて一気にその数を握ったわけじゃない。
ざっくり沢山の数字入ってりゃインパクトあるね、という、よくある話ですよ。
中国の反日プロパガンダの際の○○万人虐殺、と大差ない。演出ですよ。
また昼間のネタのないワイドショーがこういうものをネタにするのでしょうね。
本件も、ワイドショーみて悪態つく主婦みたいな程度の連中が、Twitterで分かったようなことを言って騒いでるだけなわけで。
しかし、それがアクセス数を稼ぎ、ネットニュースになり、グ◎シーやらスマートなんたらに載ることで「今ホットな話題」というラベルがつく。
ナウい展開やね。ナウいビジネスの人々は大喜びやろうね。
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さておき、ちょっと思い出したことがありまして。
個人の自由意志 vs 全体主義、集団主義みたいな話になりそうでちょっと嫌なんですが。
クルミドコーヒーというお店が西国分寺にあってね。
この夏は少しお休みしているけど、「クルミドの朝モヤ」という哲学カフェ企画があってですね。
そこでは皆が、その日に考えてみたい【お題】を提案するわけなんですけど。
私が以前、そこで提案したお題に
「能力のあるものは、発揮しなければならないのか」
というのがある。
これは一年くらい前からわたしの頭の中をぐるぐる回っている哲学的命題であって。
勉強ができる奴は特進クラスに行くべきなのか。
身体が丈夫で体格のいいやつは文化部でなく運動部に入るべきなのか。
歌の上手いやつはサラリーマンなどやってないで歌手を目指すべきなのか。
世の中には「埋もれた才能」というのがたぶん沢山あって、それが全て発揮されれば、経済的な生産性も、文化レベルもすごく上がりそう、な気がする。
しかし、「才能があると分かっているけど、それをしない」という人々をどう扱うか、という問題だ。
そもそも才能に気づいていないという場合もあるだろうが、それはさておき。
だれよりも足が速い人がいたとする。
ウサインボルトより速い。陸上やればスターになれる。
観光資源としても活用できるかもしれない。でもその人は
「競争が嫌いだし人前に出るのも好きじゃないから陸上とかちょっとやりたくないですね。自分は食べるのが好きなので調理師にでもなります」
と言ったとする。さて、我々は
1, 無理やりにでも走らせるべきか
2, 調理師目指すことを応援するか
という問題。
君はだれよりも足が速いんだよ!と諭すと。
「はい知ってます、たぶんボルトより速い」
と彼は答える。
なんで走らないの?!と問えば、
「いや競争とか人前とかマジで勘弁してください」
と答える。
本人の意思を尊重するなら、走らせないほうがいいわけだ。
しかし、彼はボルトより速く走れることを、自分でも知っている。
さて、彼は走ったほうが、いいのか。
何て面白い問いなのだろうか!!
こういうの考えるのワクワクするよね。
今回のおにぎり二万個マネージャーの話で、このことを思い出した。
つまり「勉強できるやつは特進クラスに行くべきなのか」という話だ。
おにぎりを握ったのが自分の意志であるか、という部分も関わってきてしまうので、
「本人の意思ならば、選択は自由なのか」
と同時に
「能力を無駄にする選択は損失なのか」
という、二本立ての問題がここにはある。
___
ちなみに
「クルミドの朝モヤ」ではその日、この課題は採用されなかった。
しかしクルミドコーヒーの店主は個別にコメントをくれた。
私の記憶によればこんな感じだった。
「才能や能力っていうのは、ほんとうに自分一人のものなのか。お父さんお母さんのおかげでもあるし、環境がそうさせてくれたのかもしれない。また偶然に突然変異的に備わった、いただきもの?のようなものかもしれない。それを使わずにいる、というのは、個人的には、そうあるべきでないと思う。まして能力を自覚しているなら、それを世界に還元する?ことが、やはり正しいのではないか」
成る程、一理ある。
ギフティッド思想というやつに近い。
才能は神が与えたものであり、世のために還元されねばならない。特筆した才能は早めに抽出し、最大化して、世界を良くするのだ、という思想ですね。アメリカなんかでは盛んですね。
最近、アメリカで飛び級で大学進学した日本の子供のおかげで、この言葉は以前よりは知られたかもしれない。
しかし、これは見方を変えれば、「個人の権利を無視した社会主義・全体主義」ともとれる。
ちょっと天才なだけで、社会のために、世界をより良くするために生きることを、周りから求められるわけだ。しかも物心ついた時から。
なぜなら貴方は、神が人類に与えたもうた奇跡の人だから。
そいつ自身の人権よりも、社会にとっての生産性のほうが重視される。
ものすごく抑圧的でものすごく暴力的なもの、とも解釈できるわけだ。
ちなみにギフティッド思想は、ほんとにサヴァン症候群くらい異質な才能に適用されるものを本来は指す、という解釈もある。
私はこちらに賛成だ。
ちょっと勉強で秀でたくらいでこの思想を適用すべきではない、と私も思う。
なので最近報道されてた日本人少年の件でギフティッドがどーのこーの言ってるのは、私的にはあんまりピンと来ない。
あーエリートに対する囲い込み教育そのものを否定してる訳じゃないですよ。
_____
ていうかね。
この問題で最もわたしがピンと来ない、というか、「残念」なのは、
「能力のあるものが、それを選ばなかったとき、その人間が【攻撃されがち】である」
ということ。
その際に、多くの人は、社会への還元率がどーのこーの、とか、経済的生産性があーだこーだ、とか言う。
それだけや無いやろ?って思う。
妬ましいからやろ?って思う。
それがイライラすんねんて。
才能が羨ましい、妬ましい、て素直に言えよ。て思う。
まあ俺がひねくれとるだけかもしれんけど。
_____
ちなみにおにぎり二万個マネージャーの話に戻すと、はっきり言うけど、
「特進クラスに行かなかったくらいで失われるような学力なら、
他人が声を挙げて擁護するほどの価値は無い」
と思う。
ほんとうに生産性を発揮できる人間なら、これから幾らでも発揮できるやろう。
マネージャーとしておにぎり握るという行為は、どうやらそれなりの価値を発揮したようやし。
これから これから。
それだけのこと。
ちなみに、おにぎりを握っていたという選択が正しかったのかどうか、は、私にはなんとも言えない。
是非を問えるような立場でもないし。
ただ、女子マネが握ってくれたおにぎりが食べたいかと言われればどうか。
食べたい…よね、うん、食べたい。
____
本人がやりたい事ならそれをさせるのが正しいのか、という命題もある。
ちなみにクルミドの朝モヤで
「主体的なほうが素晴らしいのか」
というお題を提案したことがある。
ちなみにその際には採用されなかった。その日の方々にとって、もっとピンとくるお題が他から出たからだが。
今度また誰かと話したいな。こういう話。
能力は必ず発揮されるべきなのか、について。
付随して、主体的なほうが正しいのか、について。
すんませんねぇ。俺こんな事ばっか考えてるんすよ。
今更ながらWindowsの「システムの復元」設定の大事さの件
今更ながらWindows環境がおかしくなった時のために「システムの復元」機能がONになっとるのって大事やな…って思ったわけです。
ちょっとシステム重くなったな、であるとか。
変なアドウェアが入っちゃったな、であるとか。
ごくごく単純に、過去のシステムに戻してしまうだけで、問題解決できちゃったりしますものね。
この機能、本来であればデフォルトでONになっており、個別の設定などは必要ないはずなのですが、たまにこれが外れている機体があるようで。
実際にわたしの自宅用マシンではこれが利用できたのですが、某所で利用しているWin7ではシステムの復元が「無効」になっており対応できず…もっとも外れている場合は、手動で設定すればいいのですが。
参考:
Windows7:システムの保護(システムの復元)を設定するには / 教えて!Helpdesk
http://www.office-qa.com/win/win140.htm
では、何故、外れるのか、という話。
外れている場合の多くは、システムディスク(Cドライブ)が正確に認識できていない事による参照エラーである場合が多いようですね。
推察ですが、ディスクごとコピーしたバックアップデータから復旧させたシステムでよく起こる現象であると思われます。
Cドライブがシステムディスク以外にも二重に存在するかのような勘違いをしてしまう場合があるのですよね。
あと、合わせて気になるのが
「復元ポイントの保存のためにHDD容量どのくらい確保しておくか」
の問題…
実際4GBもあればじゅうぶんだとは思うのですけどね。このために10GBも使ってられない。
あれ、自宅用のAcerここの設定いくつになってるんだろ…急に不安になってきた
参考:
システムの復元ポイントを作成したら、ひとつのポイントの容量はどれくらいになる... /Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1396945343
「頭痛」との長い長い戦いについて
わたしはもう、10年来の「頭痛持ち」なんですね。
変な言い方ですけれども、この「頭痛」との戦いに、わたしの人生はそうとうの時間を奪われてしまっているんです。
頭痛さえなければ、もっと時間を避けることが沢山ある。
もっと進んでいること、取り組めていることがほんとうに沢山ある。
はずだ、と思うのです。
痛みがひどいときは、本当に起き上がることができない。痛みで声を上げることもあるくらい、とにかく、痛い。
今朝もそうだった。
ロキソニン(強力な痛み止めのやつ)を飲もうと、引き出しに手を伸ばしたいのだが、苦痛で体を起こすことができない。何分も力を溜めて、根性一発、全力で起き上がって薬を手に取り、卓上のブリタの浄水器から水を組み、飲む。
そのまま力尽きて倒れる。
次の瞬間、気づくと1時間くらい経っている。
あぁ、11時からの約束にいけない。お詫びのメッセしなきゃ。となる。
気づくと2時間経っている。
あぁ、13時からのイベント遅刻だわ、連絡しなきゃ、となる。
___
吐き気をともなう頭痛がはじまったのは、たぶん20歳くらいの時だと思う。
アルバイト中に妙に頭痛と吐き気がする、という経験が何度もあった。若くて体力もあったからだろうか、我慢?で無難にこなせていたのだが。
サラリーマン時代にいろいろと身体を悪くしてからは、とにかく痛みがひどくなった。
光のまぶしさ(というより、強いコントラスト)に耐えられず、夜道で目を開けていられない、という状況が何度もあった。(少し目を開けて、目を閉じて1〜2秒歩く、を繰り返して凌いだ)
小さな音にも敏感になり、時計の秒針はおろか、HDDの振動音で吐き気をもよおすことも多い。
いまでもひどい頭痛のときは、テレビも部屋の照明も完全NGだ。何もできない。
_____
ぴりぴりした「軽い頭痛」とは、けっこう頻繁に付き合っている感覚もある。
問題は「ひどい頭痛」のほう。リマインダが設定されているかのように、忘れた頃にやってくる。
あまりにひどいので、28くらいの時にct検査をした。
去年もあたらしい医者にかかって、再度レントゲンとCT検査をした。
大きな異常はなし。偏頭痛と緊張性頭痛の併発であることは間違いない、という事だった。
「はっきりとした理由が分からない」っていうのは、逆に強いストレスだ。
脳にコブでもあって、それを取り除けば終わりです、のほうが何倍も安心できる。
_____
かばんの中には常に痛み止め。
そしてこの秋からは毎晩の予防薬。
ずいぶん頭痛との付き合い方はうまくなったとは思うが、どうにも納得いかないことがある。
それは、決まって、ひどい頭痛が
「休日にやってくる」
ことだ。
もちろん、仕事をするうえで、平日を外してくれるのは大変ありがたい。
しかし、かんべんしてくれと。俺にも予定があんねんと。これは次の休日にやろう、休みの日に済ませておこう、と思っていたことが全部ふっとぶわけですよ。
なにせ音も光もすべてが刺激として脳に突き刺さってくるため、何もできない。
まあ、ごくごく稀に、動けない頭痛が平日にやってきたときも「仕事あるのになんで平日にくんねん」と思ってしまうので、結局いつ来ても迷惑なだけなんですけれども。
_______
つまり、頭痛さえなければ
「頭痛にうばわれる時間」
を
「普通に過ごせる時間」「何かに充てられる時間」
にそのまま置換できるわけだ。
絶対に直したほうがいい。
_______
「寝かた が悪い」のではないか、という指摘がある。
確かにわたしは、寝るのがすごく苦手だ。
明日のために早く寝る、ということを感覚的にほとんどした事が無いし、ベットの上にいろんなものが溜まりがち(服とか‥)だからだ。
寝方を変えれば治るのか‥もしれない。
そうすることでわたしの人生に何十時間も有意義な時間が増えるのか‥
こりゃ真剣に部屋の中のもの半分くらい捨ててみるかな
どのくらい雪のせいだったかをきちんと考えてみた
きのうは都知事選の投票日だった。
自分なりにきちんと考えて、自分なりの基準で投票した。
投票した手前やはり気になるので、20時少し前にテレビをつけた。
20時。当確の一報。舛添氏大勝の結果を受け、ネット上ではぞろぞろと一部の方々が声を挙げはじめる。
私も人のことは言えない、二言三言、Twitterへのつぶやき投稿で、今回の結果を受けての「うさ晴らし」をしていた一般大衆のうちの一人だ。
TwitterやらFacebookで
「ぜんぶ雪のせいだ」
というジョークがわっと自然発生した。
たいへん不評だった例のJR ski skiの広告が、まさかこんな形で日の目を見ることになろうとは。微笑ましい。
でも、一夜明けて今日、選挙結果を改めて見直してみて、
「これちっとも雪のせいじゃないな」と感じてしまった自分がいまして。
まだ正確な数字が出ていないので推定の域を出ませんが、やはり、投票率が低いことと舛添氏の当選の相関性は、そんなに高くないのですよ。
(正確な資料が出たらこの記事にリンク程度でも追加していこうと思いますが、)出口調査による「世代別投票率」と「世代別 誰に票を入れたか」を集計して「世代別平均支持率」を算出し、有権者人口の比率に合わせて計算したとしても、舛添氏の当選はおそらく変わらない。
20代の票では、トップの座を田母神氏か宇都宮氏に譲る可能性はあるかもしれないが、世代別人口比率的を考えると、まず揺るがなかったことでしょう、と。
という、なかば印象論だけで話をしても仕方ないので、現時点でわかる範囲の数字でも、以下に確認してみます。
今回の都知事選の有権者数は1068万5343人。
最終投票率は46.14%とのこと。
白紙などの無効票も投票率に反映されているので、
「投票しなかった有権者」は、約575万5千人いる。
成る程、一見、「雪のせい」に見える。
問題は、「投票しなかった有権者」が、「もし投票していたなら誰に入れたか」なわけで。
上位候補の得票数、つまり「投票した人」の候補者支持率の対比は以下の通り。
舛添要一 2,112,979票 43.40%
宇都宮健児 982,594票 20.18%
細川護熙 956,063票 19.64%
田母神俊雄 610,865票 12.55%
例えば、宇都宮氏が舛添氏を上回るための条件=約113万票の差をひっくり返すことができる条件の例は以下の通り。
※比率はあくまで一例です
▼投票率がもう10%高く、56.14%だったとき
「その10%の層(約106万票)」の内訳が
宇都宮氏の支持率100%でも不可能。
不可能なのです。
▼投票率がもう15%高く、61.14%だったとき
「その15%の層(約159万票)」の内訳が
宇都宮氏の支持率が80%のとき、舛添氏の支持率が1.5%以下
現実的でしょうか。
▼投票率が20%高く、66.14%だったとき
「その20%の層(212万票)」の内訳が
宇都宮氏の支持率75%、且つ舛添氏の支持率が15%以下
ちなみに上記パターンでも、舛添氏以外の票のうち88%が宇都宮氏に集中しなければ無理なわけで。
つまり投票率が高ければ舛添氏にならなかったのか、と言われれば、そうとも言えないほど舛添氏は強かったし、それを都民が選んだわけだ。
ぜんぶ雪のせいか?と言われれば
「晴れても舛添氏が当選した」
可能性はかなり高かったんですね。
気のせいかな、まあだいたいこんな感じよな、とも思いましたが、なぜか突然、山手線の中できちんと確認しておきたくなったので、電卓アプリでパチパチやってみた次第です。
…
誰が選ばれようが、Twitterやら何やらには批判は飛びます。
批判的視点は常に必要ですし、大衆の業も、有識者の欺瞞も、中二病どもの屁理屈も似たようなものです。
自治体の長を選挙で選んだのですから、あとはリーダーとフォロワーがどのような関係を築き、どう進んで行くのかを考えるべきです。
舛添氏は大臣経験もあり、他の候補者の中でも行政の各方面に(良し悪しは別として)パイプや恩、縁が多い方でしょう。都職員(≒フォロワー)との実務的連携においてはたいへん期待できます。そこには強く期待します。そこには。
上層3.5%を目指すエリート女性たち(仮)
まずは何より【エリートとは何か】という話になってしまいますが。
ある社会の中で優秀がゆえに選ばれたもの、みたいな意味だそうです。語源は古フランス語で「選びぬかれしもの」という意味らしいですね。
要するに相対性の産物であるという事には変わりなさそうです。
多数のおまえらの中から、優れた俺が選ばれている、だから俺がエリートでお前らは凡人、という構図ですね。
まあ、この構図は、どんな世界のどのような事柄にもありうることでしょう。
エリートが悪い、などと言うつもりは更々ありません。
(私的には、嫉妬心とか、妬みとか、そういう感情は多少ありますが…)
その座を目指すのも悪いことではないでしょう。「選ばれるため」の競争に参戦し、努力なり何なりするわけだ。
どの世界にも、どのベクトルにおいてもあり得ることです、多いにやればいい。
___
今日、こんなニュースをSNSで見かけたわけです。
【専業主婦を養える男性は、3.5%しかいない。男性不況という現実『ホワイト企業』】
http://www.excite.co.jp/News/reviewbook/20140106/E1388949637956.html
ほほう。3.5%ですか。
何を基準に出した数字かは別として、あくまでこの数字が事実であったとしたら、という前提で話を進めましょう。
いまの御時世、専業主婦ができる世帯は全体の3.5%であると
「専業主婦ができる」とはどういうことか。おそらく「共働きしなくても標準的(?)な生活ができる」ということだろう。
それが現代の日本では3.5%しかいないということ。
上位3.5%だよ?
40人のクラスに1人しかいない計算なわけよ。
…いや、違う。記事では「男性は」となっている。つまりひとクラス40人が男女20人ずつだとしたら、その層の男子は2クラスに1人しかいないことになる。エリートですわ。そう呼んでもいいだろう、くらいの希少性ですわ。
たんに高所得であることがエリートの定義であるかどうか、については今は置いといて。
「専業主婦になる」
とはどういう事か、という話です。
その男性に結婚相手として認められ、選ばれなければならない訳だ。ひとクラスに一人もいない存在として、まさに「選び抜かれしもの」=「エリート」でなければならない。
そう、専業主婦志向=かなりハイレベルなエリート志向という事になる。
これを自覚しなければ「専業主婦になりたい」は戯言で終わってしまう。
「専業主婦がいいなー」と気軽に口にする女子たちは、割合的には周囲の女子たち40人弱を蹴落として、やっと一人しかその座を掴めない計算なわけですわ。
本気で「専業主婦を目指します!」と宣言するということは【わたしは上層3.5%のエリートとなるべき女です】と宣言しているに他ならない。
自分がエリート志向であると自覚して語るならいい。
エリートになるために必死で努力しているならいい。
そうでない女子は鼻で笑われるのを分かっていて言っているのだろうか。いや、現実(だとしたら)を知らないがゆえに無自覚に無邪気にそう叫んでいる可能性もじゅうぶんあるのか。
___
当然だが、男性の経済的エリートの中にも、努力してないやつはいる。
親のコネとか。
容姿がずば抜けているとか。
もともとの知性と雇用市場がすさまじくマッチングしたとか。
そういう裕福な方々が、専業主婦の存在を支えてあげられるわけや。
勿論、そうでないエリートもいる。
血の滲むような努力でのし上がったり。
青春のすべてを受験勉強にかけて東大→官僚になったりとかね。
これらは、専業主婦を望む女子にも同じことが言えるわけで
特に努力もせず、苦労なく3.5%の専業主婦になれる女子はいる。
親のコネとか。
容姿がずば抜けているとか。
もともとの適正と主婦業?に求められる要素がすさまじく合致したとか。
まず、そういう層の女性が「選ばれし専業主婦」になっていく。
そして、そうでない専業主婦も存在するわけだ。
血の滲むような努力で女子力を磨いたりとか。
青春の全てを純愛(決してストーキングではない)に注いで嫁さんになったりとかね。
_____
エリート志向、大いに結構です。
がんばって自分を磨くなり、持ち前のバワーで周りの40人を出し抜いてください。
それが「専業主婦になりたい」といことの本質ですわ。
_____
しかし、念のためもう一度言っておきますね。
ほんとうに所得上位3.5%しか、主婦(主夫)の暮らしを支えられないのだろうか。
それが本当だとしたら、すごく厳しい社会にも思える。学費が高いせいだろうか。共働きでやっと生活できるくらいがこの社会の「普通」であるという事だろうか。
はたしてそんな社会を、皆が望んでいるのだろうか。
普通の人の普通のつつましやかな暮らしの世界には、
専業主婦などというブルジョワ文化は存在しえないのだろうか。
そんなに我々は金を稼がないといけないのだろうか。
そんなに我々は金を使わないといけないのだろうか。
何かが、おかしい。うまく言えないけど。
まぁ、たぶん数字が間違ってるんだよね。
もう一度きちんと調べるなりして、この調査における「専業主婦を支えられるのは全体の3.5%」
についての根拠はきちんと確認しておこう、と思います。
元の調査じたい、「ホワイト企業」を抽出して羅列する、というある意味“下衆い”レポートですし、きっとくだらない調査のアホみたいな基準によるバカみたいな根拠なのでしょう…
【そうであってほしい】とボクが望んでるだけかもしれません。
だって なんか 嫌やもん そんな世の中。
1260円を払って買わないと中身が読めない、というのもなんかちょっと下衆い。
エリート層なら屁でもない値段なんかなぁ。
1260円かぁ。
高いなあ。