6mm方眼ノート

方眼紙に書くと、なんとなく、普通の紙に書くよりも整理できるような気がするよね。

思い出の付箋の話

PCのHDDの容量に余裕がない。

外付に逃がせばいいだけの話かというと少し違っている。
なんというか、妙に「写真」の量が多い。

最初に買ったソニーサイバーショット以来のデジタル写真は、全て残っている。12年分…?くらい?だろうか。そのあと買ったデジカメの写真も、携帯電話の写メフォルダ内のものも、全て残っている。
何千枚のではたぶん足りない、万桁の写真たちだ。

大事な写真もある。
変わりゆく地元の写真。
旧友たちとの写真。
あーそういえば手伝ったなあこんなイベント、の写真。
津波のあとを歩いた写真。
などなど、などなど。

反面、これ必要なんかなあ、消してもいいんちゃうかなぁ、というものも多くあるようだ。
1に、ヤフオク出品用の写真。
2に、iPhoneの写真フォルダとの同期フォルダ。

ヤフオク出品したものをいつまでも写真でとってある。
…なんに使うねん、これ。よっしゃ捨てよう。

しかし「iPhoneの同期フォルダ」これが面倒だ。
iPhone4時代のものからずっとある。
そもそも昔はフォルダ分けがiPhone上で出来なかったこともあり、特になんの写真だがわからない?ものが大量に、ただただ、iPhone待避という名目でそこにある。


現役のiPhone5の中には、今日時点で写真が8445枚あるが、もちろんフォルダ分けはされてない。
iPhone4の頃から移管してきた頃のものもある。
幾つかはフォルダ分けされた状態でPCとiPadに入っているようだが…

てことは重複もあるわけだ。きっと

詳しくはわからない。
ああああめんどくさ。

消そう。
もう具体的なトピックスに紐づくもの以外は消そう。
思いつく限りのフォルダつくって、そこに該当しなきゃ消そう。
そのフォルダだけiPhoneと同期すればいいや

「写真は 思い出の付箋」
綾瀬風香さんの名言だ。
(出展:あずまきよひこよつばと!』)

ごもっともである。
その写真をちらり見るだけでその日の記憶がよみがえる。

いや、しかしね。

撮りに撮りまくった数万枚の写真があるとして、それを見なおしたとして、
「うわー懐かしいな、こんなのあったなー」
って確かに思えたとして、

うーん。
確かにぶわっと蘇える記憶はあるよ。
あるけど。
なんか無理やり呼び出してるっていうか、なんていうか。例えば一年に一度、写真を見直すことで、ひととおりぜんぶ思い出すことが出来るとして…それって良いことなんかなあ?

その思い出 ほんとに 全部 いる?って思ってしまう。
ヤフオクで売ったものとか笑


【付箋】はやたらめったら貼るもんではない。
大事なところに貼るものだ。
仕事とか勉強でも、べたべた貼りまくると結局ぜんぶ消化できなかったりするのがオチだ。

やっぱ具体的なトピックスに紐づかない写真は消そう。



でも、消す前に、最後に観よう…
ってやってたら結局おおむね消せないよね、っていう「大掃除あるある」ですね。

嫌い、という感情

うまく言えないけど、なんか最近、ある程度「人に嫌われたい」と思うようになってきた自分がいる。
あぁ、こりゃ 敵 作るんだろうなぁ、という行動や発言を、意図的にすることが、しばしばあるのではないか、と自省している。

私には「好きなもの」が多い。おそらく多趣味と言われる側の人間であるし。
好きなものは好きだとはっきり言いたい。
そのぶん、嫌いなものは嫌いだなー、と強く感じてしまう。
その感情は、基本的には押し殺すべきなのだろう。
社交辞令としてもそうだろうし、周囲にネガティブな因子を振り撒かないように、であるとか、自分自身が嫌われないように、といった合理性もあるだろう。

しかし最近の私は、なぜだろう「嫌い」を押し殺さない。
別に尖った人間をアピールしたいわけではないが。
いや、したいのかもしれない、無意識には。
人によっては中二病の2ちゃんねらのようにも見えてしまうかもしれない。

なんか「好きなものを好き」という気持ちの裏側で、同じだけ「嫌いなものは嫌い」という営みが動いているような気がしている。
脳内で、というより、胸の中で。

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好きなものを好きと言って、好き合いたい、好かれあいたい。当然、わたしも、そうだ。

そんな気持ちばかりが世に溢れるなかで、ふと思う。
人間は好きなものがあるぶん、嫌いなものだってあるだろう。嫌いと言いたい場面だってあるだろうし、嫌われることだってあるだろう。望むか望まないかは別として、そういう汚いものも、常にこころに持ち続けるものだ。

それに抗うかのように、嫌われないように、損をしないように、ネガティブ因子を振りまかないように、明るくポジティブに、いい人を振舞うべきだ、という理屈もあるでしょう。
「好きなものを好きだと素直に言うのは素晴らしい。でも、嫌いなものを嫌いというのはやめなさい」
なんか小学校の先生みたいな言い回しになっちゃうなあ…

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なんか、うまく言えてるかは微妙なのだが、わたしはどうしても「嫌い なものは、嫌い でいたい」。

ある程度の人を嫌って、有る程度の人に嫌われたほうが、その人から発せられる「好き」の気持ちも【ホンモノ】のような気がしてならない。
そんな自分であることを、ある程度、周りの方々にも分かって欲しい。

それが社会人として不適正であるならば、わたしは不適正者であることを受け入れるしかない。


好き という気持ちは、嫌い と切り離して独立して存在しうるか、否か。
私も、しうる、と思う
嫌い、という対概念との相対性でしか 好き が存在し得ない、ということになってしまったら、「好きな食べ物は多いが、嫌いな食べ物はありません」という図式が成り立たなくなる。

…まあ「好き嫌いなく食べる」のは別の話かもしれないが。
もっと嗜好性の高い文化的なもの…で比喩できないものかな。ちょっと思い浮かばないけど。

要するに、相対主義 なのかなぁ、私は

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それにしても、私はなぜ最近になって「あぁ、こりゃ敵作るだろうなぁ」的な発言をしたくなっているのだろう。
感性における「ホンモノの 好き」を求めるためだろうか。
それとも心が病んでいるだけか。

後者かもなぁ、って思う。体調とかが悪いとネガティブになるしね。


だとしたらネガティブ振りまいてるだけの迷惑野郎じゃねぇか。社会人として不適正ですね。

あーなんか受け入れるって言っちゃったなぁ…さっき…

恥ずかしい日本人の話

ハフィントン ポストの記事にこんな見出しが踊った

「AKBがASEAN首脳の前でダンス「北朝鮮喜び組のようだ」非難の声も 」
http://www.huffingtonpost.jp/2013/12/15/akb48-asean_n_4450956.html

これに同調して「日本の恥だ」みたいなコメントをする人々がいる。
アホか、と一蹴したい。
何がどう日本の恥なのか、ちょっときちんと説明してごらん。と。
 
ニュース記事の見出しが煽るのも悪いんだけど。
お偉いさんの前でAKBが踊っているのを見て
北朝鮮喜び組みたい」→「非常識、日本の恥」
としか連想できないとは、思考の貧弱さに反吐が出る。
 
来賓のおもてなしで、若い姉ちゃんが歌い踊る。
何がおかしいの?
そんなことに目くじら立てても嘲笑を買うだけだろう。
 
 
黒髪の若い娘が並んで唄って踊る「光景」は、確かに、ワイドショーでいじられていた北朝鮮の「喜び組とされる人たち」と視覚的に共通するものがある。

それが何なの?
だから批判するの?
喜び組を連想させるような見た目だったから?
ならず者国家の国策と似たようなことを日本政府がするんじゃない、と?
 
ゴシップ大好きなあなた達の脳が、
わぁー なんか喜び組みたーい、
北朝鮮みたーい、
恥ずかしいね− 品性を疑うねー
と、勝手な連結をしたい だけじゃなくて?
 
___


こんなもん深い意味なんかねぇーんだよ。
メシ会の余興なんだから。
いま日本で流行ってる人たちですよ、ご覧あれ、でいいじゃん。こんなもん。
 

激しく問いたい。
竜宮城で鯛やヒラメが舞い踊ってるのは、どう思うのですか?
沖縄サミットで安室奈美恵が唄って踊って おもてなし した事については、どう思うのですか?
 
「そういうのとは違う!」という人たちには「どう違うのですか」と問い詰めたい。まさか「見た目が喜び組みたいじゃん」などとほざくんじゃあるまいね。
 
どっちが日本の恥だよ。
 
まあ、日本国民がみな、そんな愚か者だ、とも思わないですけれどもね。
ネットの一部の人間だけが騒いでいるのだと思いたいですけれどもね。
 
最近のワイドショーはネットからネタを拾うからなぁ…
これを昼のテレビとかが拾って、
「ほら!なんか喜び組を連想させるものがあるでしょう」
などと言い出さないことを祈るばかりですわ。

「主体的な学び」という言葉は美しい

「主体的な学び」
というコトバそのものは前から耳にする。近年の学校教育だと、「学び合い」の実践が主体性を育てる、などという言説も多く目にとまるようになってきた。
反面、集団授業の講義形式が主体性を殺す、などととなぜか無下に罵られたりするのもたまに見かけた。マイケル・サンデルが流行ったせいで変に煽られた層が出ただけであろう
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「主体的な学び」。いい響きだ。
確かにこれが、学習者にとっても、教育者にとっても、最高に効率もいいだろうし、互いのその場の精神的満足度も高いだろう。
そういう意味では、学びという行為は主体的であってほしい。

問題点を敢えて上げるなら、実際に主体的に学ぶためには、以下が満たされる必要があることだ
― 何よりまず学習者が、個体として、主体性を発揮できる存在であること
― 学習行為、もしくは学習内容が、学習者にとって主体的に取り組もうと思える事柄であること
― それが継続的に実践できる環境や条件があること

つまり「主体的に学べる」場面がありうると同時に、主体的でない学びの場が世の中にごまんとあるわけだ。

そんなことはない!すべての人間は能力的には主体的に学べるはずだ!

そんな反論が聞こえてきそうだが、「その場において、その事柄を、主体的に学べない人」なんてのはごまんといる、という意味です、悪しからず。

とすると、新たな問題がふたつ。
1)主体的に学べない人に、記号としての「主体的な学び」を押し付けるとどうなるのか
2)受動的に・強制的に学んで育っていく人間は、主体的に学ぶ人間と比べて優劣があるのか

「主体的な学び」なんて興味深い事柄なのだろう。
ちょっと誰かとこの話を酒でも飲みながらしてみたい。
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わたしは最近、学習者としては、けっこう麻痺してきているかもしれない。まさに学びの姿勢がここ1,2年でどんどん弱くなっている。

勉活?せなあかんのかなぁ。

いつまで人は学びつづけるのだろうか。
いつまで人は育ちつづけるのだろうか。
育ち と 学び は別のものではあるが、なんて興味深い事柄なのだろうか。

Facebookって口に出して言ってみてほしい話

わたし、今ちょっと、細かいことでじぶんが嫌いになってるのですよ。

Facebook」ってあるじゃないですか。
…すみません、ちょっと、「Facebook」って口に出して見てくれませんか?
 
せー のっ、「Facebook
 
ありがとうございました。笑。


その際の【発音】についてなのですが。
あなたの発する「Facebook」には、どこにアクセントがありますか?っていう話なんですよ。

少し前に、俺の発音が“なんか気になる”って言われたわけですよ。

金曜日の深夜だったか、お笑い関連でUst配信に付き合わされた時のこと。
どこぞの2ちゃんねらが、コメント欄にて
「お前のFacebookの発音がなんか気になる」
と突っかかってきたわけです。

…? と思った私は隣に座る配信主に確認してみた

のぶさん:「F↑ac↓eb→ookの発音?」
配信主 :「Fa→ce→b→oo↓kでしょ」
のぶさん:「F↑ac↓eb→ook、」
配信主 :「Fa→ce→b→oo↓k、」
のぶさん:「?」
配信主 :「?」

確かに違う。明らかに違う。
俺の発音が、なんかちょっと、気取った感じになっとる。
なに俺、F↑ac↓eb→ookて。
ネイティブ気取か。

でも俺、それこそ使い始めた頃からF↑ac↓eb→ookって言ってる気がするんですよね
何処かで誰かがそう言うのを聞いたからだろうか、本当に疑いもなくF↑ac↓e→bookであると認識していたわけです。


Facebookページ】のときは
「Fa→ce→b→oo→kペー↓ジ」
って言ってるくせに。

うわぁぁぁあぁ なんか気持ち悪い
じぶん自身の発音が

カタカナ語として日本に定着してるくせに、ネイティブっぽい発音する奴がたまに居るわけですよ。
英語教育の進んだ高校のひととか、TOEIC受けたひととか。
まあ別に知ったこっちゃないですし、個人的にも発音そのものはさほど気にならないのですが、
「棒読みした方が伝わりやすいかもしれない場面」
においても、そういうネイティブじみた発音をしている奴をたまに見かけるわけです。
その際には、ああ、こいつコミュニケーションスキルどないやねん、と感じてしまうわけですが

何を隠そう、
俺自身がFacebookについてのみ
「F↑ac↓e→book」
言うてるがな。あかんがな。

いや あかんのか?
これ本当に俺があかんのか?
日本人の皆々様は実際のところ「Facebook」をどう発音しているのか?

NHKのアナウンサーとかの発音、どうなんやろう。
聞いてみたい。

社会的にマイノリティであるかどうかも確かに気になるところですが、
それを待たずしても「Facebook」においてのみネイティブ気取りな感じになっちゃってる俺。
なんか気持ち悪い。
F↑ac↓e→bookて。
なんやねんな。俺。

ライフログとSNSの話

アメリカ発のFacebook上での「親密度」を見える化する手法、なんてのが最近いくつかあるらしい。
ギガジンなんかは「Facebookを見るだけで、だいたい誰と誰が恋人か分かる」なんていう見出しで記事にしていたが、
…まあ日本ではそんなに流行らないだろう。
…アメリカでもそんなに流行らないだろうけど。

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Facebookの情報なんて「目的に応じて恣意的に抽出された事柄」でしかない。
目的を果たすために有益な情報はより良く着色して掲載されるし、都合の悪いことは全て切り落とす。

いわば求職時のポートフォリオ、履歴書のもうなものだ。

言うまでもなく「いいね!」やシェアも同義だ。
誰が誰に「いいね!」したかは、半公共の記録として残る。その記録を残すことが、Facebookの利用目的に対して都合がいい場合のみ、「いいね!」も、シェアも行われる。
人や相手に対してではなく、こんな記事にいいね!してる自分イイネ!というのが本質だ。

そんなもんが「ライフログ」な訳がない。

人生には無駄なものも嫌なことも沢山ある。それに目をつぶって何がLIFEだというのか。

Facebook上の親密度の「読み方」もここに大きく関連する。
SNS上における親密度の高さは「ある【思惑】の対象として重視されている度合い」にしかならない。その人の人間関係の深さや交流の量、質とイコールではない。
もちろん無関係であるはずもないので、何かしらの関連、相関関係は生じるだろうが。

ちなみにここで言う【思惑】は、ひとつとは限らないし、自覚的とも限らない。

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こんな製品が発売されたらしい
http://japanese.engadget.com/2013/11/11/narrative-1-2000/
襟につけてれば30秒に一枚、勝手に写真を取りまくるそうだ。

成る程、このカメラの中身は、ライフログ、と呼ぶに相応しい。カメラ回しっぱなしの状況は「撮影」が「恣意的動作ではない」ところがいい。

しかし、カメラから写真を出力→ストレージする部分が手動の操作、しかもUSBで接続する必要があるらしい。
ダメダメだ。意味が無い。
「恣意的な行為を挟まなければ閲覧できる状態にならない」時点で、(少なくともSNSよりは)純粋なライフログはカメラの中にしか存在しない。

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知る限りでは、現状において「ライフログ」と呼べるものをSNSやローカルストレージに効率良く蓄積する商品やサービスは存在しない。

そんなもの要らない、のかもしれないけど。

(米軍はすでに国民のライフログとってそうだけど)

「社会人」として生きるということのひとつの考察

「このご時世、普通では社会で生き残れない」
という言い方をする人がいる。
具体的には、就活支援サークルであるとか、キャリアアップなんたらといった場所に結構いる印象だ。
 
正直な印象としては、そういう方々には
「普通」
という言葉の意味、また
「社会」
という言葉の意味を、改めてきちんと考えてみることを勧めたい。
 
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競争に乗らない連中を指して
「システムに埋没した退屈な生き方だ」などと批判する人がいる。
 
いやいや。こっちのセリフだよ、と言いたい。

仕組まれた不必要な競争の中で「特別であること」を過度に求められ、そうでない人間を卑下することで、あたかも真実に取って代わろうとしている。

山盛りの餌で飼い慣らされた、
「システムに埋没した家畜」
はそちら側なのだよ、と言いたい。

気づかないのは家畜が故のことか。

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すげえ奴に出会って、すげぇ奴に憧れてすげぇ奴になりたくてすげぇ頑張る人々を悪く言う気はない。

だけど、過半数の人間はそんな生き方に向いてない。特にそんなことを望まなくても、人は普通に、きちんと生きていく。
 
それを可能にしているのが
「社会」
なのだということを忘れてはならない。
 
我々は社会人である。
野生の獣でも肥やされた豚でもない。
それを自覚して生きることだ。
 
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「キャリア教育」なるものが一部で盛り上がっている。
関係者各位は、どうか忘れないでほしい。
社会 とは何であるかを。
社会人 という言葉の意味を、そこでもう一度きちんと考えてほしい。