6mm方眼ノート

方眼紙に書くと、なんとなく、普通の紙に書くよりも整理できるような気がするよね。

かつて日本はオリンピック開催権を返上したことがある訳だが

午前五時頃。
ブエノスアイレスからの生中継。
ウォォッという完成。
2020年、東京での夏季五輪開催決定。
おめでとう + ありがとう。
この日を待ってたよ。

さて、五輪の誘致に成功した事を受け、早速、最終プレゼンでの安部首相のスピーチを中心としたネガティブキャンペーンが始まった。

うん。
これでいい。
これこそ望んでいた状況。

国際社会に対してあんな胡散臭い啖呵を切ってしまった以上、もう誤魔化しは効かない。これで国外(主にこれまで核汚染問題に敏感でなかった国々)からも「日本は本当に安全なのか」の多角的な検証の目が向けられることになる。

ちなみに日本は「開催権を自主的に返上した」歴史を持つ国であるわけで。
(1940年大会、第二次世界大戦下の情勢で国際的祭典の実施に無理があったため、ヘルシンキに譲った)
嘘や不誠実があれば、その程度によっては、二度目の返上という大きな歴史的汚点を残すことになる。

さあ日本政府よ。
国際世論に真摯に対峙してください。
みんなの命と地球の平和とスポーツ文化のために。

Suica忘れたせいで身体性の重要さ(の一端)が身に沁みる

本日カードケースを持たずに家を出てしまったので、久々に切符を買って電車に乗ったわけですが。
なんか小銭で切符を買うことで、いつもより【運賃】というものが見にしみる。
あぁ、160円だなあ。みたいな。

やっぱり「身体性」って大事なんやね。
100円と、50円と10円が指からするっと落ちていく。

記録と数字だけでやり取りするだけでなく、
小銭入れから160円を選びとり、小銭をチャリンと投入口にいれたり、
千円冊を一枚一枚、捲って数えたり、
するのが、なんか「お金払ってる感」があって良いな、と感じた。

しかし、どちらが便利かと言われれば、勿論カードでピッ、のほうが手間はかからない。
私だって日頃はSuicaでピッ、の人だ。
でも、思い返せば、あの行為は1円でも1万円でも「身体性に差がない」のだよなあ、と考えさせられる。
せいぜい、わずかに視覚でデジタル表示を確認するくらいだ。

現金で払う時は、その差を目でも指でも大きく感じられる。
わずか重量1gの一円玉を小銭の中からつまみ出すことと、ほぼ同じ重さながらあれだけ大きくて気品のある一万円札を財布から取り出すこと、
そこにある「身体性の差」。

あと、数枚の紙幣を自分の指で数える「動き」、あれがなんとも言えずいいですよね。
…2、3、4、っていう、あれね。
目でみて、指で感じて、お金を払う。

これを面倒くさいと思うか、あぁ なんか良いな、と思えるかは、行動主体(この場合はわたし)の性格だったり、その瞬間のアンテナ感度…心のゆとり?にも依るのかもしれないけれど。

そう考えると、テレビゲームの身体性も危ういですね。
コンシューマゲームのユーザーはスマホゲームに流れつつあることで、
これまでも鈍かった「ボタン押す」だけの身体性(アナログスティック除く)が、タッチパネルのタッチ、スライドに全面的に置き換えられている。

あんまり変わらんじゃないか、と思われるかもしれませんが、
メールを打つときも、Webを見るときも、ゲームをするときも、
【同じ手触りの画面を、ほぼ同じピッチで触っている】
わけで。

ヒトの暮らしの身体性の幅は、ユニバーサルデバイスの登場によって著しく均一化されている。
ニュースを読むとき、遅刻の連絡をするとき、パワプロするとき(他のゲームでもいいけど)、
以前はそれぞれに、違うものを触り、違う強さで、違う動きをしていたはずだ。
今は指先でガラスをなぞる、という均一な身体動作ですべて一元化されている。

そういえばスマホをカラオケのリモコンにするアプリがあるな…私も利用したことがある。
Androidでは赤外線でテレビのリモコンも操作できるようだし。
成る程、スマホに一元化できるのは便利ではある。だ。ただ、ここでも独立した身体性(デンモク触る、リモコン触る)は失われている。

自宅にPCがあっても、なんとなくスマホでネットやテキスト打ちをしてしまっている人も多いだろう。
PCの立ち上げ時間や常に手元にある手軽さなどがその理由として挙げられるだろうが、
もし、
【同じ手間、同じ作業量であるのなら、均一化された身体動作のほうが楽だから】
PCに手が伸びてない、という視点もあるだろう。

身体性の均一化は、「便利」を求めた結果としてのひとつのシンボルだろうが、なんつーか、本当にこれでいいのかな、という怖さのようなものはある。

…みたいな事を、
久々に切符を買っての山手線ホームでずっと考えてました。
カードケース忘れたばっかりに。
あと、小銭を払う事を、あぁ、良いかも、と感じる事ができた自分自身の問題もあるのでしょうね。

ラジオに流されてみる

今朝の通勤時のこと。
radikoつけたら「あまちゃん」の話題。のぶさんは一度も観たことがないんですよね。
潮騒のメモリーっていう曲を初めて聴いた。良くも悪くも、昭和っぽいっていうか。団塊の世代には懐かしいのやろか。私にはピンとこない。


やはりラジオはいい。
予期しない情報が飛び込んでくる。

なんだかんだで、ラジオから得た知識・情報はけっこうある。
美木良介のロングブレスダイエットの詳しいところとか。
文学賞をとったのが現役の食堂のおばちゃんである件とか。
阿部首相がサミットの前に硫黄島に立ち寄り、まだ回収できてない日本兵の遺骨が埋まっている滑走路に膝をついて何かつぶやいていたとか。

何度でも言おう、やはりラジオはいい。
興味が無いことも一方的にズバズバ流れてくる。

テレビやラジオはリアルタイムなインタラクティブ性が低い。参加型の企画や番組はあるにはあるものの、おおむね一方向的なメディアだ。
その「内容」について取捨選択するのは自分ではない、あくまで作り手の側だ。受け取るものの内容や事柄について、番組やチャンネルというレベルでしか選べない。

何も得られないかもしれないし、すごく勉強になるかもしれない。
だからこそ、いいんだよね。ラジオとかは。


時にはiPodで自分でつくったプレイリストを再生するときもある。
まあ、なんつーか、楽しいよね。
当たり前だよね。
だって、自分が楽しめるものを、自分が楽しみたいように組んだんだし。

分かってんねん、楽しいのは。
そのぶん「得るものの 限界 もある程度 見えちゃってる」という一面もあるかもしれない。

自主的、自発的なことは確かに素晴らしい。
能動的に事柄をコントロールできるのは確かに効率的だし気持ちいい。

けれども「流れに委ねる」っていう状態を、わたしは生活の中に常に持っていたい。
皆にも是非もっておいて欲しい、と思う。


そこにある世界なんて、まだまだ広い世界のなかの、ほんのひときれ、でしかない。新しい世界は不意にやってくる。
時には電波に乗って。

ぼっちメシ、大いに結構じゃありませんか

視線気にせずおひとりさま 京大学食「ぼっち席」人気

http://www.asahi.com/national/update/0727/OSK201307270001.html

 京都大学の学生食堂にできた1人用席が静かな人気だ。大きなテーブルについたてを立てただけ。それでも、ひとりぼっちへの周囲の目線を気にせず食事できることから「ぼっち席」と呼ばれ、定着。神戸大学でも採用された。

なるほど、大机についたてを立てただけ。
確かに一人で食事をする時は、こちらのほうが座りやすくなるのかもしれない。

ぼっち席、というと、いかにもコミュ障を卑下しているように聞こえがちですが、
こちらのほうが個々人が食を楽しめるのであれば、サービスとして提供するのは当然アリでしょう。

もちろん、学食には、同時に大机もあって然るべきでしょう。
あ…、このつい立て、簡単に出したりしまったりできる「パーティション」みたいなのにならんもんですかね?
___

ついたてを立てる事で、具体的には
・周囲の人に、自分の顔が見えづらくなる
・自分の視界に、他人が入ってきづらくなる
状態になる。

これが食事の際に、心理的な安心に繋がるというのは、まぁ、理解できる。

自分が食べるところをわざわざ他人に見られたいかと言われれば、それも変な話であるし、行き交う人々の群れのなかでメシを食いたいかと言われれば、そこに楽しみを求めない限り、静かにメシを食いたいと思うのも自然な事だろう。
ぼっち席、いいじゃないですか。

数年前、トイレで孤食する大学生、みたいのがニュースで話題になった。
「一人でメシを食ってる、という状況を人に見られるのが恥ずかしいので」
という声がフォーカスされていた。

この感情も、ぼっち席はある程度緩和してくれているだろう。
自分の顔も相手に見えづらいし、視界をさえぎることで周囲に人がいる事も認識しづらくなっているわけで。

…しかしまあ、

そもそも一人でメシを食う事は、特に恥ずかしい事では無いはずだ。
問題なのは、一人でメシを食ってるところをひとに見られるのが恥ずかしい、と思ってしまう【価値基準】のほうだ。

毎日友達とメシを食ってる人がコミュニケーション力が高い、なんて話じゃないですし。むしろ、たまたまランチタイムに周りに誰も居ない場合があったとき「すんなり一人で食事を済ませる事が出来ないひと」のほうにむしろ問題がある。

みんなで楽しくランチしてるリア充
ひとりカウンターでぼっちメシの俺、
などという端的な観測で
生活の充足度やコミュニケーションスキルが
測れるわけないでしょ?

リア充アピールは、一歩道を踏み外すと
誰かと食べてなきゃ恥ずかしい!
友達が居ないと思われたくない!
とにかく連れを確保しなきゃ!
という【不安】に転嫁しがちだ。
まあ少年期にはよくある心理構造なので(誘い合ってトイレに行く女子と同じ)、言ってみれば「可愛いもの」なのだが。

ちなみにオープンな食堂スペースにおける「コミュニケーションスキルの高い人」というのは、
【友達と大机に座れるひと】
よりも
【知らないひとと大机で合席しても
にこやかに食事を済ませられるひと】
を指しますので。
みなさんにはくれぐれも、勘違いして欲しくないものです。特に若い方々。

卵とニワトリみたいな僕等とよのなか


なんかここ数日のわたしは、発想がネガティブになっているかもしれない。
体調が悪いからかな…今週は頭痛が抜けず口内炎もずっと治らない。

ポジティブな未来を描く事は、営みとしてはたぶん必要だろう。
暗く考えるよりは明るく考えたほうがアクティブに動けるだろうし、なんとなく、そっちのほうが健康にも良さげだ。
病は気から、というやつだが。

しかし体調が悪いから、元気がないからポジティブシンキングできないのでは、とも想定され…まさに「卵が先か、ニワトリが先か」みたいな感じでもやもやする。
フィジカルとメンタルは相関関係にある、ってことだけはなんとなく分かっているつもりだけれども。


国や、社会も、そうかもしれん。
あと経済行為も、そうかもしれん。
嫌だ、ダメだと思うよりは、明るい未来を描かなあかん。
そうでないとチャレンジして成功を掴むみたいな事が出来るわけもなく。
もちろん失敗の可能性も常にあるわけだけど、その不安を乗り越えるのはあくまでヒトのココロなのであって。

暗い未来を描くのは、よくない。と言えるだろう
社会にとっても、集団にとっても、個人の生活にとっても、よくない。
ある程度、笑って前を向いて、明るい未来を描かなあかん。

でも
「システムが悪いから、実際に生活が苦しいからポジティブシンキングできないのでは?」
とも想定されるわけで。

卵が先かニワトリが先か、と同様に
「個人が描く希望未来と社会構造システムは相関関係にある」
みたいな事を考えてしまったわけで。

うーん。
読み返して思うけど、なんかやっぱり、わたしは今、発想がネガティブになっているなぁ。

普通に働いている“あなた”のことを取材させてください のお願い

現在、高校生〜大学生を対象にした
「はたらく大人のくらしに触れる」
「日々をいきいきと送るおとなに出会う」
プラットフォームサイトの立ち上げプロジェクトに
ちょっと かかわって います。

現在、 
インタビューと写真撮影(顔出し要相談)をさせていただける
会社員・自営業の方を募集しています。

______________________

変な言い方かもしれませんが、誤解を恐れずに言いますと
【立派な人じゃ無くてもいい】ので【素直なひとのこころの話】
を聞かせていただきたいです。
 
仕事が好きで、やりがいに溢れ
日々をゴリゴリがんばっている人も
もちろん募集していますが、

それと同時に、嫌なことには愚痴りながら、
やりたくないことを我慢しながら、
とにかく目の前のことと戦って、
それでも毎日それなりに楽しんで、
そんな人生を歩んでいる「オトナなひと」のお話を
ぜひ伺いたいのです。

______________________

キャリア教育と呼ばれるフィールドや、
社会人と学生の交流会などに顔を出すと
いかにも誇らしげに自分のキャリアを掲げている人に出会えます。

輝かしいオトナは若者たちの憧れになるでしょう。

しかし、オトナの中には、
普通に苦しみ、普通に悩み、
それでも普通の幸せを探している人々が
たくさんいるはずです。

しかし、メディアには殆ど載りません。

イベントにもなかなか参加なさいません。

そこらへんにいるオトナなんて、
コンテンツ力が弱いですしね。

でも、はっきり言えば
世の中の8割の人々は、そういう生き方をしていく。

その人達は、不幸せな 負け組 なのでしょうか。

決してそんなことはない。

経済的成功や社会的地位を得ることだけでない、
「いろんな人のいろんな暮らしのなかに、いろんな輝き方がある」
ことを、子どもたち、若者たちに伝えていく必要がある。

イケてる2割の人々でない、
残り8割のためのキャリア教育、です。

それを如何にして学生に伝えるか。
それをインターネットというメディアを利用して実現できるのか、
という、挑戦、です。
_______________________

御礼は…
謝金は申し訳ありませんがお出し出来ません、
そのかわり、といっては何ですが
ラーメン一杯奢ります+お勧めラーメン情報を提供いたします(笑)


条件は…
・日々のおしごとの話を聞かせてくれる方
・会社名は出しませんが、業種・職種を公開いただける方
   ※希望があれば固有の会社名、団体名の公開も検討します
・可能な限り、顔写真を撮らせていただける+ネットで公開できる方
・可能な限り、職場風景・現場風景の写真を撮らせてくれるor提供いただける+ネットで公開できる方
   ※もちろん対象者様以外の 顔 は移り混まないようにします

・ふつうのオトナたちの、いたってふつうの声が、
 俗に言う「キャリア教育」にとって有効だ、必要だ、
 という考えに同意いただける方
_______________________

わたし自身、ひとつのサンプルとして
取材されたろかな、と思っていますが、
なんか今はひょんなことから つくる側 に回ってしまっていますね
なぜだろう。

ご縁?
 
 
 



 

某イベントで「若者と社会をつなぐこと」について考えてきました

きょうは津田さんのお誘いで、「アスバシ教育基金」さんのイベントに参加してきました。
前進はあのNPO法人アスクネットさんなのですね。成る程です。

ワールドカフェ形式で議論があったのですが、
時間やファシリの関係で、まとめやアウトプットがあまり出来ていなかったので、
テーブルの議論を参考に、改めて以下に私見をまとめておきます。
自分のメモのためですが…

 ※あくまで私見であり、イベント参加者の総意や結論などではありません
____
問1:社会で若者がいきいきと働くために、何が問題なのか

・そもそもいきいきと働くって具体的にはどういう状態なわけ?
・自分がいきいきと働いてるかどうかを決めるのは誰なわけ?

・基本的に、働くのは食うためなんだよね
・いきいきと働いているに越したことはないが、そうでない人々を否定したくはない
・世の中の何割がいきいきと働いてるかは分からないが
・人にはそれぞれの事情、立場、スタイルがあるでしょ

・さておき

・自分の「性根」と違うのに、人に押し付けられた価値観で「いきいき」できる訳がない
・「いきいき」は、自分の中からしか生じない
・いきいきした状態、にもたくさんのスタイルがある
・自分にとって良い働き方ができているから、いきいきとしたオーラが内からにじみ出てくるものでしょ
・自分にとってのいきいきがどんな状態であるか、それを実践できる空間がどのようなものであるか、を知らねばならない

・つまり何よりまず「自分を知る」ことが必要だ
・同時に「いろんな大人がいろんな生活でいきいきしている」事実に触れることが必要だ

・子供や若者が大人に触れるとき、経済的に成功してる人、カリスマ的活動家などばかりに触れるのは良くない
・成功者のいきいきライフが、その若者のウマに合うかどうかが分からないからだ
・最も避けるべきは「こういう社会人が素晴らしいんだ、こういう大人を目指すべきなんだ」というエリート思想の植え付け
・ウマが合わない子供達に挫折を与えてしまい「敗者」「弱者」にしてしまうからだ
・いきいき生きる方法なんて無限にある

・社会教育系の活動の多くは、この罠に落ちている
・活動をより良いものにしようとすればするほど、サンプルは「優れた大人」ばかり揃ってゆく
・結果、上層にしか響かない内容になっていき、間接的なエリート主義になる
・間接的なだけに、そのような空間での劣等感は子どもに深くしこりを残す

_____
問2:問題に対して私たちは何ができるか

・子供のうちから、たくさんの人に触れることだ
・多様な大人のモデルに触れ、時間をかけて自分の感性で「自分はどんな大人になるのか」を感じることだ

・先入観なく、世代を超えた交流ができる場が必要だ
・ポイントはふたつ「場の多様性、重層生」と「複数の場への参加」だとおもう

▼「場の重層性」
・多くのひとびとに触れるためには、質の違う、たくさんのコミュニティが地域になければダメ
・たとえば哲学カフェだけが盛んな地域では、小難しいことに抵抗のある人には敷居が高い
・真面目なこと、サブカルなこと、くだらないこと、たくさんのフックのコミュニティがあることが大事
・このとき、ひとつのコミュニティが複数の性質をもつのでなく、テーマのはっきりしたコミュニティが複数あるほうがよい。そちらのほうが新規参入などがしやすい

複数の場への参加
・ひとつのコミュニティで触れられる大人モデルには質の偏りが出がち
・質の違う複数のコミュニティに属することで、多様な質のひとに触れる
・すべてのコミュニティに属する必要はない。間接的につながることは比較的容易にできる
[例]a.b.c.d.eのコミュニティに
 Aさん a.b.cに出入り
 Bさん b.c.dに出入り
 Cさん a.d.eに出入り
みたいな状態なら、いつでも「誰かの紹介で一見さん参加できる」わけだ


【我々にできること】
1]オトナも異なる質の複数のコミュニティに属そう、嫌なら抜けて次を探そう
2]コミュニティが足りないと思ったら創ろう。カラーのあるものなら、どんな質でも、どんな規模でもいい
3]世代を超えてコミュニティに参加しやすい土壌をつくろう。心のゆとり、時間のゆとり、物理的な場、などなど

_____
うん、まあ、そういう考えです、私は。
私がボンズを立ち上げようと思ったきっかけにも相当強く繋がっていますね…
なるほどね、と感じました。