6mm方眼ノート

方眼紙に書くと、なんとなく、普通の紙に書くよりも整理できるような気がするよね。

若者だけじゃない、おっさん・オバサンだって社会を変えられる

若者の力が、とか、社会とワカモノが、とか、何かとエンパワメントは「若者」を軸に語られがち。

まあ、話は分かります。若者のほうが未来に「幅」がありますものね。
でもなんか違和感がある。
おっさんはピーク過ぎとるから得意な事で経済活動しとけ、みたいな空気が、どうしても、ある。

 
若い連中からエネルギーが放出されるのって、当たり前というか、ありきたりというか、わざわざ大人たちがお膳立てしてフォーカスする程のもんなのか?と感じてしまいます。
煽りすぎてねーか、ちょっと。
現状では足りない!若者はもっともっと、すべからく、社会に価値を創出せねばならない!ということなんかなぁ。

 

ほっときゃ いいのに ね。若いんだし。

 

そもそも元気なやつは元気だし、おとなしいもんはおとなしい。その点において、若者だろうがオトナだろうがジジババだろうが、関係ないんだけどねぇ。

 

持論ですが、ほんとうに社会にインパクトを与えるエンパワメントは、大人層、労働者層から創出されなあかん、って思っています。
俺自信が、もう いい歳 やから、そう思うだけかもしれませんけど。

いい歳したオトナが、日々の暮らしの中で、なにかしら価値のあることを周りに少しずつ染み込ませていく、みたいなね…そんな世の中、おもしろいやん。そんな社会、素敵やん。
 
俺はそうありたい。
「まだまだ若いから、いろんなものを創出、放出できる」のではない。

真逆で、「俺がきちんとオトナになったから」だ。

いい大人になった俺が、大人の感性で、大人の立場を守りながら、ちゃんとエンパワメントする、そうでなくちゃ面白くない。

 

 

「お湯入れて すぐ混ぜて」の理由を実感した日

 

甘かった。

オフィスでカップスープ(ク◯ールのスー◯デリ、マカロニみたいのが入ってるやつ)作ったんですけど、面倒だったので、混ぜずに4~5分放置したんですよ。

後から混ぜればいいじゃないか、と思って。

まあ結果から言えば

「甘かった」

としか言いようが無いですわ。
美味しくなかったから。
べつに食べられない程じゃないですけど、美味しくなかったから。

肝心の、何がどうしてまずかったのか、という話なわけですが

スープはいいんですよ。あとから混ぜたって混ざるんだから。

問題は小さなパスタだかマカロニだかのほう。これがぜんぜん違う。
第一に「味がうすい」、第二に「スープ粉末に守られてお湯を吸ってないやつがガリってなる」

第二は奇跡的に、物理的にありうるよね、って思った。

以外だったのは、パスタの味の薄さ。ふにゅふにゅでスカスカで水っぽい。
本来は「味のついたスープを吸って柔らかくなる」ことを想定して作られている、という事なのだろうか。
だとしたら、最初によく混ぜてすべてのスープを溶かすことは、溶け残りを防ぐだけでなく、「パスタに味を染み込ませる」為もあるんやな、と。

本来の味は、本来のレシピどおりにつくらないと再現できない

 ↑ っていうことなんですよね、結局。

冷凍食品とかもそう。10年前、20年前と比べると、最近のものはすごく美味しいんですけど、レシピ通りに作れたら、の話なんすよね。

600Wで4分20秒、という商品なら、ちゃんと中央に設置して、ちゃんと600Wでちゃんと4分20秒あたためた時に、理想的な味・食感になっているはず。
おおむね溶ければいいや、という考え方なら、4~5分という表記でもいいわけだし。

カップスープもそうなんすよね。ちゃんと線までお湯を注ぎ、指示どおりに15秒すぐ混ぜて、三分後に食べた時に、製作者が作った本来の味が楽しめるわけで。

 

…まあ、そこまで気合入れてカップスープや冷凍食品を食おうとも思わんし、
冷食を解凍したり、カップに湯を入れて混ぜることを「レシピ」と呼んでいいかどうか、ってのもあるんやけどさ。

 

突然ですが「若さ」を捨てることにしました

突然ですが「若さ」を捨てることにしました。はい。

いや、別に、どこか 体 壊したとか、そういう意味じゃないんですけどね。

若い連中に交じることが自分にとって良いことなのかどうか…

 

高校生や大学生たちをを目の前にしたとき、彼ら彼女らを
 「若い連中」
として括り始めたのは、2~3年前のことだろうか。
当時は「あっ、やべぇな、こういうこと感じないほうがいいな」と思ってました。
まるで俺が、もう若くない、みたいじゃねえか。と考えていました。
 
つまり、自分自身、まだまだ若いはず、という気持ちがあったということ。
若さを失うことのマイナスを強く感じていたのでしょうか、それとも、成熟していくことで得るものをイメージしきれていなかった、のでしょうか。
今となっては当時の心理状態は思い起こせませんが…

ここ数ヶ月で突然、考え方が変わったといいますか。
若いやつらに、並列に交じっていこう、若者たちと同列でいよう、とは思わなくなったんですよね。
でも、未だに、若い人たちと遊ぶのは大好きです。
それは上に立とう、とか、引っ張っていこう、とか、そういうのとも違う
 
うまく言葉にするのは難しいですが…
 
「30代として魅力的であること」を武器にして、10代、20代ともきちんと対峙して、共に楽しもう、と考えるようになったんですよね
 
若づくりを諦めただけやろ、と思われるかもしれんですけど(笑)、実際はちょっと違っていて。

なんだかんだでオトナになった等身大の感性で

 

ここ1〜2年、なぜか「漫画を読む時間」をすごく大事にしていて。

毎週20冊をノルマとし、月のレンタルコミック代はコンスタントに5000円。

…そう考えると 大人の遊び やなぁ これ…
 
 
大人になればこそ、楽しめる漫画ってのも沢山あるんですよね。
エログロもそうやし、社会風刺系もそうやし。

でもね、逆に、少年漫画、ベタ系少女漫画を、大人になってから読むと、またいいんですよ。
別に無理やり、少年の心 を取り戻そうとしてるわけじゃなくて。
当時、何もわからずに夢を馳せていたファンタジーの世界に、30年以上生きてきた今、また夢を馳せると、なんか一味違うんですよね。
 
その感性の違いみたいのを目の当たりにして、
なんつーか、生きてきたんやな、って思う。
沢山エンタメに触れて、
沢山仕事もして、
それなりに恋愛して、
それなりに人と喧嘩とかもして、

で、今もマンガ読んだり、カラオケ月イチで行ったり、プロレスに夢中だったり してる。
ずっとそうやって過ごしてきた。数年前もそう、今もそう。
 
しかし数年前の俺と、いまの俺は、すこし「過ごし方」が違うわけで。

_______

「変わらんなぁ」と言われるのは、嬉しいんやけど

 

数年前の俺は、心のどこかで「無邪気さ、少年らしさ」を引きずってた。

変わらない自分、みたいなものに美徳を感じていたというか。
 
京都にいる頃に知り合って、東京に同時期に出てきた友人がいる。
もう随分まえの事やけど「変わらんなあ」と言われたことがあった。
嬉しかった。俺、まだ、変わってないんや、と思った。まだまだ このままで 生きていくでー!と思ってた。

でもね、今はちょっと違う。
なんていうか、少し不思議な気持ちで。
その人には数年会えてないけど、もし会える機会があれば、俺はいい意味で「変わったね」と言われたい。

童心のまま汚れずに、無邪気に生きてるんじゃなくて、さんざん汚れた大人が、それでも必死こいて生きてる、そんな自分でいたいような気がして。

ちゃんとTPOを弁えて、大人であるべき時にオトナである、ことくらい出来ているつもりだ。
そのうえで遊びたい。
そのうえではしゃぎたい。
そのうえで好きな事したい。
30代の感性でそれを実践するからこそ、味わえる喜びがある。
背伸びして 若づくり していては手に入らないモノがある、そんな気がするんですよね。

で、ふと数日前に思ったわけですわ。

【若さ】は、もう俺の人生にはあんまり必要ないな、と。
魅力ある おっさん のほうが俺はたぶん幸せやな、と。

_____________


これこそが「老けた」って事なのかもしれんのですけども。
ええやん、それはそれで。そのうえで、今の日々が、楽しいんやし。

そのうえで
 [若者だけが社会を変える原動力ではない]
と、声を大にして言いたいんですよね。

これはまた後日にでも簡単に。

企画書を書く必要性、をやっぱり感じる

前エントリ
http://d.hatena.ne.jp/yamamotonobuhiro/20151106
のとおり、「本を出す」為に動き始めた私でありますが。
 
出版するにもWebサイト造るにも、ライブイベントやコミュニティサークルを立ち上げるにも、まずは何より
「企画書」
でしょ、というのが自分のモットーでして。
 
思えば[Bon-s]を立ち上げた際にも、やっぱり企画書をつくって、周りのオトナ達を捕まえては、これってどう思う?面白いと思う?とたずねて回ったものです。

※なんか今思い返すと、自分に有利な答えをくれそうな人を選んで持っていってたような気もしてきた。
 趣味のコミュニティだからそれでも許されたかもしれないが、今回は違うかもしれない。と少し反省
___

企画書を書くにあたっての参考資料は、やはりWeb上の「テンプレまとめ」が第一なのでしょうね。

NAVERまとめ だとこのあたりでしょうか。
http://matome.naver.jp/odai/2129652678666949101

あと、出版物を造る上での企画書の心得、みたいのも独自にありそうですね。
http://kayfact.web.fc2.com/20090706b.pdf
ざっと探して辿り着いたのはこちら。
 
まずはざっと流し読みしたあと、ドラフトを書いてみて、まずは誰かに見てもらう(=診てもらう)、というプロセスがやっぱり一番かな。

突然ですが「本を出そう」と思っています

いや突然すぎる話ですが、今、山本ノブヒロは
「本を出そう」ということを、
けっこう本気で考えています。
 
これは、私がぼんやりと叶えたかった「ゆるい夢」のひとつでもあります。
 
誰のココロの中にも、「ゆるい夢」って、あると思うんです。
ああしたいな、こうしたいな、こんな人間になれたらいいな、でもそれに人生をかける、ストイックに全てを捧ぐ、それほどの勇気もない。
そんな、いわゆる「戯言(たわごと)」「絵空事」を、敢えて「ゆるい夢」と呼んでみようじゃありませんか。
 
あるでしょう?誰にだって、「ゆるい夢」。
私にも幾つかあります。
 
そのうちのひとつが、
「自分の名前で、自分で看板を背負って、社会に通用する発信をすること」
です。
 
ブログとかTwitterとかFacebookで出来るやん、と思われる方もいるかもしれない。
しかし、商業主義の中で、流通に乗る、ということを目指したい、と私は考えています。
アフィリエイトブログすればいいやん、と仰る方もいるかもしれない。
しかし、古典的な既存の方法で、いやらしい言い方を敢えてするならば「権威の傘の中に参入する」ことにチャレンジしたい、と私は考えています。
 
具体的にはISBNコードを取得し、出版社から出版する。
わたしの名前で著書を出版する。
これを1年以内に叶えたいと考えています。
2016年10月30日までに考えたい。

で、いったい何の本を書くの?

ネタはあるんです。
本を書くためにネタを探して文章をひねり出さねばならない、という「お仕事感覚」でなく、
このトピックスをより多くの人に伝え、語り、そして皆様に考えて欲しい!と思える「ココロの叫び」のような事柄が、あるんです。
2つ、あるんです。
 

口ばっかりじゃなくて、実現するには

 
素人なりに、実現に必要な要素をざっくりと考えてみる。
あくまで個人の成果として、個人名で、出版社から本を出す
 ・具体的な企画
 ・執筆能力
以外に
 ・出版社(編集者)に「著者」として認められること
これが必要だな、と思う。

商業主義のなかで「出版」というビジネスを生業にしているプロに
「使える商材」である、と思われる必要があるということ。
 
 
これから、具体的に、私が私の名前で本を出すために
具体的に取り組んだことは全てブログに記録していこうと思う。
 
なんていうか、頑張る。
 
話ちょっと逸れるけど、頑張る、ってなんだろうね。

 

「仕事のミス」で「ダメージを負う」のは誰なのか

さきほど、

ダメージを最小限に抑える!仕事のミスを挽回するための小ワザ集
http://allabout.co.jp/matome/cl000000006640/

という記事をなんとなく見かけたわけです。
 
私も、恥ずかしながらい、仕事をしていればミスはします。はい。
けっして少ないほうではない?と思います。笑。笑えないけど。
なので、どんな事が書いてあるのだろう、と素直に思い、クリック。ここまではライターの思惑通りなのでしょうが…

なんといいますか、内容に、ものすごく違和感を覚えたのです。
 
自分のこと」にしか着眼してないんですよ。
自分が許してもらうこと、自分の信頼の失墜を防ぐこと、にしかフォーカスされていない。
仕事のミス」の話なのに。

もちろん、それも大事なことでしょう。食っていくためには、職を失うわけにはいかないですし。自分の評価が高ければこそ、集団のなかで発揮できる生産性もあるでしょう。
そういう事柄に触れるな、という事ではないのです。
なぜ「自分のダメージ」ばかりで「仕事のダメージ」のことが出てこないのか
 
この記事は「仕事のミスを挽回する」と称していながら、「仕事全体のダメージ」にはまったく着眼してないわけですよ。
保身のことしか考えておらず、相手のことにはまったく意識が向いていない。
仕事がネタである必要がまったく無いやないか、と。
  
「仕事」でミスをした時、ダメージを負うのは自分だけではないんです。
ひとり起業であれ、会社員であれ、ファストフードのアルバイトでさえも、「仕事をする」ということは、「多くのステークホルダーと連結する」ことです。
そのダメージは自分だけでなく(もちろんミスの程度にもよるが、)自分の所属するチーム、自分の生産している商品、自分を雇っている会社、生産したサービスを享受している顧客、すべてに及ぶ可能性があるわけで。
 
この記事の作成者は「仕事でミスをする」ことの本質を分かっていない。
 
仕事全体のことが見えていない。
「自身の評価」でしか、仕事の正負を測れていない。 
俺は周囲のひとに、そういう姿勢で仕事をしてほしくないし、俺自身も、そういう姿勢で仕事はしたくない。
こういう発想の人間が「隠蔽体質」になるのでは、とさえ思えてくるんですよね。
___
  
批判的な発言ばかりでは、なんかいやらしいですので、持論も書くとですね。
 
保身を考えるな、自身の心配をするな、という意味ではないのですよ。
最初にも書きましたが、立場や信頼がなければ、生産性も発揮できませんからね。

だとしても、ですよ。
だとしても、「仕事のミスを挽回する」という行為は、まず「仕事全体のダメージ」にフォーカスされるべきです。
 
もし、仕事でミスをしてしまったら、どう振る舞うべきか。
 
まず第一に、ミスの影響範囲をなるべく性格に把握することでしょう。(これを実践するには、迅速な報・連・相が有効だと思う。)
そして第二に、影響範囲のなかに、もしデリケートな部分、大きな信頼に関わる部分(=ダメージに弱い部分)があるなら、まずそこをケアすることだ。応急手当でもいい、手遅れになる前に手を付けることが大事でしょう。
特にデリケートな部分がない場合は、自分の手の届く身近なところから、ひとつずつ丁寧にミスを補填していくこと。

この手順で「仕事全体に及ぶダメージをなるべく低く」する。

逆に、この手順を踏めない人間が、いかに「振る舞い」や「言葉遣い」で自分のダメージを回避したところで、挽回できるとは到底思えませんが。(もちろん失敗の程度による)
 
__
 
どうして、そんなネタばっかりまとめる羽目になっちゃってるんでしょうね、この記事も。

まあ、なんといいますか、世間ではこんなこと
「常識過ぎて」
書くまでもない、テキストにおこす気にもならない、為に、エントリが存在しないのかもしれませんが。

だとしたら、わざわざテキスト化している私のほうが「仕事できないやつ」っていう可能性もありますね。
 
はぁ。
 
仕事しよ。

それも妖怪のせいなのね、そうなのね

スーパー戦隊生誕40周年、新ヒーローは『手裏剣戦隊ニンニンジャー』
http://www.oricon.co.jp/news/2046483/full/
 
過去に忍者モチーフは、『忍者戦隊カクレンジャー』(94年2月〜)、『忍風戦隊ハリケンジャー』(02年2月〜)があり、いずれも人気シリーズとして大ヒット。3作目となる今作のヒーローは、「ラストニンジャ」とうたわれた史上最強の忍者・伊賀崎好天を祖父に持つ、5人の若者たち。かつてラストニンジャによって封印されたはずの妖怪が復活。いとこ同士の5人は「ニンニンジャー」として、人々を襲う妖怪を倒すために立ち上がる。彼らは「忍びなれども忍ばない!」を決めゼリフに、手裏剣忍法を駆使し、ド派手な戦いを繰り広げる。


忍者という設定は3作めであるということですが…。
いや、というか、ヒーロー側が忍者であるという設定よりも、敵が「妖怪」であるということが気になる。

こんな言い方あれかな、って思うんすけど
妖怪ありきで企画したろ。これ。
 
地獄先生ぬ〜べ〜』の再燃の際には、おぉ 勝ち馬に乗る感じかぁ、くらいで見ていたのですが、まさか「妖怪」「ようかい」がこんなにも文化的に浸蝕するとは。正直なところ驚いてます。