6mm方眼ノート

方眼紙に書くと、なんとなく、普通の紙に書くよりも整理できるような気がするよね。

突然ですが「本を出そう」と思っています

いや突然すぎる話ですが、今、山本ノブヒロは
「本を出そう」ということを、
けっこう本気で考えています。
 
これは、私がぼんやりと叶えたかった「ゆるい夢」のひとつでもあります。
 
誰のココロの中にも、「ゆるい夢」って、あると思うんです。
ああしたいな、こうしたいな、こんな人間になれたらいいな、でもそれに人生をかける、ストイックに全てを捧ぐ、それほどの勇気もない。
そんな、いわゆる「戯言(たわごと)」「絵空事」を、敢えて「ゆるい夢」と呼んでみようじゃありませんか。
 
あるでしょう?誰にだって、「ゆるい夢」。
私にも幾つかあります。
 
そのうちのひとつが、
「自分の名前で、自分で看板を背負って、社会に通用する発信をすること」
です。
 
ブログとかTwitterとかFacebookで出来るやん、と思われる方もいるかもしれない。
しかし、商業主義の中で、流通に乗る、ということを目指したい、と私は考えています。
アフィリエイトブログすればいいやん、と仰る方もいるかもしれない。
しかし、古典的な既存の方法で、いやらしい言い方を敢えてするならば「権威の傘の中に参入する」ことにチャレンジしたい、と私は考えています。
 
具体的にはISBNコードを取得し、出版社から出版する。
わたしの名前で著書を出版する。
これを1年以内に叶えたいと考えています。
2016年10月30日までに考えたい。

で、いったい何の本を書くの?

ネタはあるんです。
本を書くためにネタを探して文章をひねり出さねばならない、という「お仕事感覚」でなく、
このトピックスをより多くの人に伝え、語り、そして皆様に考えて欲しい!と思える「ココロの叫び」のような事柄が、あるんです。
2つ、あるんです。
 

口ばっかりじゃなくて、実現するには

 
素人なりに、実現に必要な要素をざっくりと考えてみる。
あくまで個人の成果として、個人名で、出版社から本を出す
 ・具体的な企画
 ・執筆能力
以外に
 ・出版社(編集者)に「著者」として認められること
これが必要だな、と思う。

商業主義のなかで「出版」というビジネスを生業にしているプロに
「使える商材」である、と思われる必要があるということ。
 
 
これから、具体的に、私が私の名前で本を出すために
具体的に取り組んだことは全てブログに記録していこうと思う。
 
なんていうか、頑張る。
 
話ちょっと逸れるけど、頑張る、ってなんだろうね。

 

「仕事のミス」で「ダメージを負う」のは誰なのか

さきほど、

ダメージを最小限に抑える!仕事のミスを挽回するための小ワザ集
http://allabout.co.jp/matome/cl000000006640/

という記事をなんとなく見かけたわけです。
 
私も、恥ずかしながらい、仕事をしていればミスはします。はい。
けっして少ないほうではない?と思います。笑。笑えないけど。
なので、どんな事が書いてあるのだろう、と素直に思い、クリック。ここまではライターの思惑通りなのでしょうが…

なんといいますか、内容に、ものすごく違和感を覚えたのです。
 
自分のこと」にしか着眼してないんですよ。
自分が許してもらうこと、自分の信頼の失墜を防ぐこと、にしかフォーカスされていない。
仕事のミス」の話なのに。

もちろん、それも大事なことでしょう。食っていくためには、職を失うわけにはいかないですし。自分の評価が高ければこそ、集団のなかで発揮できる生産性もあるでしょう。
そういう事柄に触れるな、という事ではないのです。
なぜ「自分のダメージ」ばかりで「仕事のダメージ」のことが出てこないのか
 
この記事は「仕事のミスを挽回する」と称していながら、「仕事全体のダメージ」にはまったく着眼してないわけですよ。
保身のことしか考えておらず、相手のことにはまったく意識が向いていない。
仕事がネタである必要がまったく無いやないか、と。
  
「仕事」でミスをした時、ダメージを負うのは自分だけではないんです。
ひとり起業であれ、会社員であれ、ファストフードのアルバイトでさえも、「仕事をする」ということは、「多くのステークホルダーと連結する」ことです。
そのダメージは自分だけでなく(もちろんミスの程度にもよるが、)自分の所属するチーム、自分の生産している商品、自分を雇っている会社、生産したサービスを享受している顧客、すべてに及ぶ可能性があるわけで。
 
この記事の作成者は「仕事でミスをする」ことの本質を分かっていない。
 
仕事全体のことが見えていない。
「自身の評価」でしか、仕事の正負を測れていない。 
俺は周囲のひとに、そういう姿勢で仕事をしてほしくないし、俺自身も、そういう姿勢で仕事はしたくない。
こういう発想の人間が「隠蔽体質」になるのでは、とさえ思えてくるんですよね。
___
  
批判的な発言ばかりでは、なんかいやらしいですので、持論も書くとですね。
 
保身を考えるな、自身の心配をするな、という意味ではないのですよ。
最初にも書きましたが、立場や信頼がなければ、生産性も発揮できませんからね。

だとしても、ですよ。
だとしても、「仕事のミスを挽回する」という行為は、まず「仕事全体のダメージ」にフォーカスされるべきです。
 
もし、仕事でミスをしてしまったら、どう振る舞うべきか。
 
まず第一に、ミスの影響範囲をなるべく性格に把握することでしょう。(これを実践するには、迅速な報・連・相が有効だと思う。)
そして第二に、影響範囲のなかに、もしデリケートな部分、大きな信頼に関わる部分(=ダメージに弱い部分)があるなら、まずそこをケアすることだ。応急手当でもいい、手遅れになる前に手を付けることが大事でしょう。
特にデリケートな部分がない場合は、自分の手の届く身近なところから、ひとつずつ丁寧にミスを補填していくこと。

この手順で「仕事全体に及ぶダメージをなるべく低く」する。

逆に、この手順を踏めない人間が、いかに「振る舞い」や「言葉遣い」で自分のダメージを回避したところで、挽回できるとは到底思えませんが。(もちろん失敗の程度による)
 
__
 
どうして、そんなネタばっかりまとめる羽目になっちゃってるんでしょうね、この記事も。

まあ、なんといいますか、世間ではこんなこと
「常識過ぎて」
書くまでもない、テキストにおこす気にもならない、為に、エントリが存在しないのかもしれませんが。

だとしたら、わざわざテキスト化している私のほうが「仕事できないやつ」っていう可能性もありますね。
 
はぁ。
 
仕事しよ。

それも妖怪のせいなのね、そうなのね

スーパー戦隊生誕40周年、新ヒーローは『手裏剣戦隊ニンニンジャー』
http://www.oricon.co.jp/news/2046483/full/
 
過去に忍者モチーフは、『忍者戦隊カクレンジャー』(94年2月〜)、『忍風戦隊ハリケンジャー』(02年2月〜)があり、いずれも人気シリーズとして大ヒット。3作目となる今作のヒーローは、「ラストニンジャ」とうたわれた史上最強の忍者・伊賀崎好天を祖父に持つ、5人の若者たち。かつてラストニンジャによって封印されたはずの妖怪が復活。いとこ同士の5人は「ニンニンジャー」として、人々を襲う妖怪を倒すために立ち上がる。彼らは「忍びなれども忍ばない!」を決めゼリフに、手裏剣忍法を駆使し、ド派手な戦いを繰り広げる。


忍者という設定は3作めであるということですが…。
いや、というか、ヒーロー側が忍者であるという設定よりも、敵が「妖怪」であるということが気になる。

こんな言い方あれかな、って思うんすけど
妖怪ありきで企画したろ。これ。
 
地獄先生ぬ〜べ〜』の再燃の際には、おぉ 勝ち馬に乗る感じかぁ、くらいで見ていたのですが、まさか「妖怪」「ようかい」がこんなにも文化的に浸蝕するとは。正直なところ驚いてます。

STAP細胞という非科学的なものの話

以下、ものすごくアホな文章ですので、まあ、真に受けないでくださいね。
 
敢えて言うけど。
俺、思うんですよ。
STAP細胞はあるんじゃないか、って。

実際にその時はちゃんと出来てたんじゃないか。
ただ、その存在は「非科学的なものだった」っていうオチなんじゃないか。
って。
 
 
どんだけの関係だったか知らんけど、…ただ女の嘘をかばうだけの理由で、あんな優秀な研究者が自殺しますかね?
まあ、するかもしれんけど。
 
 
STAP細胞はあります、と言った小保方さんの言葉に嘘はなかったと思うんすよね。
なぜなら俺は
 「世の中には非科学的なこともある」
と本気で思っているから。
 
 
再現できなかったので、STAP細胞の存在は確認されなかった。
STAP細胞そのものの存在が否定されたわけじゃない。
存在を肯定するための科学的根拠が得られなかった、というだけだ。
 
そう、小保方さんは、そんとき
  【あくまで超常現象的に】
STAP細胞を見たのではないか。
 
俺はなんとなく、そう思えて仕方ないわけですよ。
 
ただ周囲は、「科学者として」そんな話を認めることは出来ないでしょうよ。
一般大衆も、比較的、こんなこと認めないでしょうよ。
「科学的ではない」「非常識だ」という理由で。
 
現代社会は、精神性や世界観よりは「科学」のちからの活用で発展してきているし、科学的な事こそ常識だとされる。
 
まあ俺も、基本的には、そう考えてるし。
 

でもね、もし仮にね、
もし仮にだよ。
 
小保方さんが【超常現象的にSTAP現象を引き起こしていた】としよう。
 
そんとき調子がよかったから出来たわけだ。
 
しかし、騒がれたりなんなりで、ちょっと調子が狂ってしまった。
急にSTAP現象を引き起こせなくなってしまったわけだ。
 
本人すらその現象が「自分が起こしていた超常現象」であったことを把握していない、としよう。
 
 
小保方さん自身が、いちばん必死こいて、再現しようとするやろう。
 
 
しかし困った、微細なデータや研究ノートが無い。
だって、そんなに厳密にやらなくても、正直、出来ていたんだもの。
細かいこと気にしなくても200回近く再現できていたんだもの。
しかし、なぜだろう、今は出来ない。
焦る。
どうしよう、なんで出来ないの?!。
もっと厳密にデータを取っておけばよかった。
 
しかし微細なデータをとっておいたところで、あんまり意味がなかったんじゃないか、と俺は思う。
だってあれは【超常現象】だったんだもの。
 
 
小保方さんは、科学者ではない、【能力者】だったんだよ
 
 
魔女の宅急便』でキキが飛べなくなる時期がある。
自分を見失った時だろうか、作者の意図はわからないが、とにかく突然、魔法が使えなくなる、あれ。
今まではなんの意識もしてなかったのに、いきなり、どうやっていたか分からなくなる。
その 絶望感 を、みなさん想像してみるといい。
怖いよ。すごく怖いよ。
 
 
論文の画像に不備があったのは事実だ。
実験ノートが甘かったのも事実だ。
そこは咎められるべきだ、と俺も思う。
 
そういう意味では、小保方さんは「科学者失格」であろう。
 
彼女は理化学研究所の研究員であったわけで、その公式発言には常に科学的根拠が求められた。
事柄を「科学的事実」たらしめるには、たくさんの要素が必要だ。
再現性とか、
測定可能性とか、
反証可能性とか、
あとなんだろう、科学者じゃないので詳しくないけど。
 
 
小保方さんのSTAP細胞生成には、そういうものが欠けていた。
にもかかわらず、
小保方さんはその頃に使えた【能力】で実験を成功させた。
 
ひょっとしたら、現在の職に就くまでの成果も、科学的方法でなく【能力】によるものの可能性がある。
 
  
そう、
彼女は非科学的な要素で科学者になってしまった悲劇の人なのだ。
これは、就活でがんばりすぎてミスマッチしてもうた新卒と変わらない。 
 
だからと言って、この世界に「STAP細胞が存在しない」ことにはならない。
「いまの科学では作れないものを1〜2年前の小保方さんが【能力】で作った」という可能性が残るからだ。
これを科学的に否定する術はたぶんない。
 
  
って考えたら、ロマンあるよね。っていう話でした。
 
最初に言ったけど、ものすごくアホな文章ですので、真に受けないでくださいね。
くれぐれも。
いいね!なんてしたら頭悪いと思われますよ

nasuneとスカパーe2とHDDデッキとをうまく繋ぎたい件

家には今、スカパーe2のアンテナがついていて
これがHDD/DVDデッキにつながっている。
で、デッキから出力で液晶テレビにアンテナ線が挿さってる。

ここにnasneを追加したいわけだ。
重要なのは、サムライTVの録画なので、
スカパーe2をうまくnasneに繋ぎたい。
しかし、nasneの裏には入力が1系統しかないわけだ。

PLANEX 全端子電流通過型 高画質・地デジ/BS/CS/110度CS対応アンテナ2分配器+F型ネジ固定式アンテナケーブル(1m) 2本セット PL-ANT02PESET

 
こいつを買ってパラボラと地デジアンテナを混同かなぁ…
うまくいくか やってみるか

働く目的なんて「メシのため」でいいじゃないか

就職活動に望む前の大学生とかを集めて、
「働く目的、みつけよう!」
みたいなセミナーをたまに見かけますよね。

正直、すごい違和感あるんですよね。
そういうワークショップをして、自分なりに働く理由を見つける、ってことは、一見良いことのように見えるのですが、なんか
「特別な意義や目的をもつことが当然、
 よりよい社会人に和るために、そうあるべき」
という空気が、なんていうか、俺はとても嫌いです。
 
本気で思うんですけどね、
働く目的、メシ食うため、でいいんですよ。
 
そうでない、他の理由で働く人も、ヨノナカには沢山いる。
というだけの話なんですよ。
 
 
何がイライラするってね、
「俺は飯のためだけじゃない、
 他にキラキラした働く目的を持ってるんだぜ」
ってだけで、
 ・飯のために割り切って働いている奴よりも優れている
 ・そういう連中より進んでいる、ヨノナカを分かっている
かのような態度をとっていることですよ。
 
俺は、そういう奴とは仕事したくねぇ。
 
ライスワークと割り切ってる奴にだって、プライドも責任感もある連中が沢山いることを、俺は知ってる。
これまで何人も、そういう輝く先輩たちを見てきた。
 
 
「メシのためと割り切っていること」そのものは、決して能力的に劣っているわけでも、生産性が低いわけでもない。
 
それを信じられないやつを、
俺は信じない。

わたしは比較的「差別的」であることと、それを指摘してきた人のこと

昨晩とても興味深いことがあった。
 
一言で言えば、ひとから「疾病者を馬鹿にするな」というような指摘を受けた、というものだ。
ちなみに疾病者本人でなく、第三者から言われた。
その場にいないある人のことを、「陰口で病人扱いしている」という構図になってしまい、その第三者の気分が害された、という感じだ。
 
確かに私に否があったと思う。
表現が雑だった。もうすこしデリケートに考え、行動や発言をせねばならないのかもしれない、と素直に反省した。
不快感を与えてしまってごめんなさい、という気持ちと同時に、そういう指摘をしてくれるひとが身近にいる事には、なんていうか、心から感謝する。
  
で、
なんで、こんな話を、わざわざテキスト化するのか、というとね。
 
ひとつは、たぶん、自分がこんなシチュエーションで人に不快感を与えてしまったことが、少なからずショックだったからなんだと思う。
その衝撃を逃がすためやろう。

もうひとつは、発達障害の知人と長く過ごしたときの経験を思いだしたからであって。
 
以下、ちょっと「そいつ」と自分とのことを少し書いてみる。
あくまでも経験談であり、一般教養や世間の常識とはずれているかもしれない。
さらに言えば、この文章がきっかけで、俺の人格を批判、否定するヒトもいるかもしれない。
(まあ、いつもの事だから、それは大した問題ではないが)

____
  
何年も前のこと。
「そいつ」は、大人になってから、某発達障害であると診断された。
 
「そいつ」はそれを周りに隠した。職を失うのでは、という危機感からだったそうだ。まあ分かる話だ。

「そいつ」は確かに、もともと変わり者扱いされていた。
職場でのことはよく知らないが、異動は多かったようだ。
人とよく喧嘩になっていた。俺ともよく喧嘩になった。
そのたびに、深く気にせずに、普通に仲直りして、普通に関係を保っていたつもりだけど。
 
俺は「そいつ」との関係が、ある程度のストレスだった。
相手を理解しようと務めてはいたが、変わり者の「そいつ」との時間には、理解に苦しむ場面が多かったからだ。

____
 
ある時、診断書のようなものを見せられた。そして一言
「どうやら自分は病気らしい」
とのこと。
 
俺はそのとき、深々と息を吸い、大きな声で、一言、こう言った
 
 「成る程 そうきたか」
 
このセリフを口にしたことが、なんか、強烈に記憶にある。

いろんなことが、妙に、腑に落ちてしまった。
これまでのストレス因子にぜんぶ、強い【免罪符】が付いてしまったわけだ。
 
汚い言い方をすれば、いろんなことを、病気のせい、と片付けた。
 
綺麗な言い方をすれば、そうであるならば、どのように接すればよいかが明瞭になったわけだ。
その後、「そいつ」との関係は、ずいぶん良好になった。
俺がある意味、いろんなことを割り切って?接したからかも知れない。喧嘩もするが、なんていうかクリーンファイトができていた。

その後も、なんだかんだで関係はしばらくの間続き、
諸事情あって、「そいつ」は、もう居ない
 
____
 
俺は「そいつ」を思いっきり病人扱いしたわけだが、不思議なことに、病人扱いする前よりも、病人扱いしたあとのほうが、断然より良い物を得ることができた。
同じように扱うのではなく、あくまで違うもの=「病人」として捉えたからだ。
 
でも俺は決して「そいつ」を馬鹿にしてはいなかった。
そっちのほうがむしろ本人の尊厳のためだ、とさえ思った。
なぜなら、そいつは、病気だからだ。
 
病気だから、いろんなことがうまくいかない。それはしょうがない。
じゃあ、俺は、そんな「そいつ」と、どうすれば目の前の事柄をより楽しめるのだろう、ということをクレバーに考えればいい、そう意識していた。
そう、
男と女がひとつのことをするように、
オトナと子供がひとつのことをするように、
病気と病気じゃない、そいつと俺とが、いろんな事をした、
というだけの話だ。
 
_____
 
そういう意味では、俺は、すごく差別的な人間だ
 
同列、同質であることを求めてない。人には能力差も容姿の差も経済格差もある。ちがうもんは、違うんよ。そう言いながら生きている、
 
でも、違いを分かった上で、違うものたちと同じ世界を生きる【覚悟】が、俺にはある。 
それは喧嘩をすること。
それは妥協や我慢をすること。
それは嫌われたり憎しみ合ったりすること。

ときには共感して笑えることもあり。
ときには自然にすっと通じ合えたり。
ときには愛し合っちゃったり。

そういったことに対する【覚悟】がある。
 
俺は、お前らとは違う、当たり前だ。
そもそもお前も、みんなとは違う。

お前は女なんだよ。
お前はハゲなんだよ。
お前はうつ病なんだよ。
お前は生まれつき脚が無いんだよ。

そのうえで、じゃあ俺たちどうするのか、って話じゃねーのか。
 
事柄によっては、一緒にやるのが無理な場合もある。
でも、差異がわかっているからこそ、やり方をうまく考えられるんじゃねーのか。
 
___
 
俺は 差異 を積極的に強調する節がある。とても差別的な人間だ
 
でも、くれぐれも言いたい。
相手を馬鹿にしてるわけじゃないんだよ。
俺だって馬鹿にされるの嫌だもの。
 
しかしながら、時として、
あなたは人を馬鹿にしている、と言われることがある。
 
これは「言い方」の問題とかもあるのかもしれない。
だとしたら、誤解を避けるための気遣いが足りなかったことは否めない。きちんとデリケートにやらなあかんな、と思う。
今回の事もそうだ。
 
しかし同時に思う。
そもそも、俺が、心の奥底ではほんとうに「馬鹿にしている」のかもしれない。
もしくは、私がそう思っていないだけで、これまでのくだりも全部、世論からすれば「馬鹿にしている」に他ならないのかもしれない。
 
当然ながら「そんなこと無い」と声高らかに酒盗したいけど、やっぱり、俺が間違っている、俺がゆがんでいる可能性だって、ある。
 
____
 
自分で自分を律するために、自分を見つめるっていう作業は常に必要だと思う。
でもセルフチェックには、すぐに限界がくる。
客観的に自分を見つめるなんてのは、半分は茶番みたいなもんだ。実際のところ、この文章も半分はセルフチェック、半分は茶番みたいなもん。
 
自分というものは、所詮、ほかの誰かが認知してはじめて在りうるものだ。
よく自分のことがジブンが一番良くわかる、などというが、あれはちょっとピンと来ない。
 
昨晩遅く、おれの発言に不快感を持ったそのひとが、俺にそういう悪態をついてくれたことは、すごく…なんていうか、意味のあることやなって思う。
そういう場面がないと「自分が間違ってるかもしれない可能性」を忘れてしまいそうだ。
   
 
話をもどすと、俺は差別主義者である。
覚悟と自信を持って、どんどん人々を差別化している。 
しかし、これすらも今後、また変えていくのかもしれない。
いまの自分に、自信も、覚悟も、あるけれども、「間違ってるかもしれない」という気持ちも忘れたくない。
 
一人暮らしよりも、俺は家族と住むほうが良いのかもしれない。
いつも他人の視点を入れることができるから。
 
家族をもつなら、そういうことを話せる、互いのありようを映しあえるような家族がいいな、と思った。