“お勉強”のアウトプットについて
いま、猛烈に反省したことがあるので、忘れないように活字化しておこうと思います。
つい先ほどまで、twitterの「お気に入り」記事について整理して、このブログにエントリーとして書き込もう、と思っていました。気になったことが流れ流れて消えてゆかないよう、何か手元で整理しなければ、と、「今日の気になる子ちゃん(perfume好き露呈)」というタグをつけてエントリーに残そう、と考えていたわけです。
しかし、その作業をしているうちに気づきました。
「無駄だわ、これ」
というわけで作業をやめました。今後もエントリーにまとめることはしません。
自身が興味のあることを整理しておくだけなら、twitterのお気に入り機能だけで十分ですし、はてなダイアリーわざわざ使ってエントリーに落とし込む手間をかける理由がない。そもそも、そのプロセスでひとつひとつのお気に入りつぶやきを詠んでいるかといわれれば、読んではいなかったわけです。ただ淡々とコピペ作業を繰り返すのみ。
そのことにはっと気づいた私。
「この作業の手間の分、つぶやき読み込んだほうがよっぽど得るものあるやんけ」
と思った瞬間、メモ帳を“保存せずに”閉じました。
一息ついた私は、なぜ、わざわざブログのエントリーに気になったつぶやきを残そうと思ってしまったのか、について考えました。
おそらく、私は、インプットそのものの価値のため、その効率化のためではなく、インプットしている自分を表現したかった、のでしょう。
自分が賢くなる、成長することそのものではなく、賢くなろうとしている自分、成長欲求の強い自分を体外的にアピールしたかったのではないか。
そう思うと、少し、恥ずかしくもなってきました。
真に賢くなることではなく「賢く思われたい」「がんばってると認識されたい」自分。
たとえば、、、算数のドリルをやっている子供がいたとする。
がんばって一日に30ページも進んだとする。
「ねえねえ見て見て、30ページも進んだよ!!」
よくがんばったね、と言われたいのかもしれないが、一日のうちに猛スピードで30ページこなした子供はほんとうにドリルで実力が上がったのか否か、に着眼せねばならない。
「見て見て、算数のテスト100点だったよ!」
のほうを誇示できねば、その学習に本質的な意味がない。
20歳くらいの頃の私は、ずばりそういう人間でした。
その頃の反省から、最近は意識的に「格好をつけるのでなく、底力をつける」ことに尽力してきたつもりでした。
しかし無意識になのでしょうか、格好つけるような事もしてしまっていたのですね。
先ほどそれに気づいてしまい、ちょっと自己嫌悪ですが。
でも、目指す自分ではない事に気づけたこと、どうしたいかをはっきり言える事だけでも、若かりし自分よりは成長できたほうなのかな、とも少し思いました。
じゃあこのエントリーもただの自己顕示なんじゃないの?
という声もいま、自分の中に湧き上がりましたが、自らが感じたことを自らの声でエッセイするのは、ドリルやったよ!注目記事をまとめているよ!といった稚拙な主張とはまた別のものでしょう、という思いのもと、本エントリーとしてまとめています。