6mm方眼ノート

方眼紙に書くと、なんとなく、普通の紙に書くよりも整理できるような気がするよね。

「学問」というコトバの意味、「オトナの学び」について、を考えた

いや、ほんとにね、どこに学びの種が落ちているか分からないですね。
たくさんの刺激を受けました。今日は良い日でした。
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国分寺の「胡桃堂喫茶店」というお店に行ってきました。

店主である影山さんとは、何年か前からのプロレス仲間でして。
市民参画や地域社会等の分野で盛んに活動なさっており、実践者としてとても魅力的で興味深い、なんだろう、勝手にわたしは影山さんのことを「街の先生」みたいな位置づけに捉えているのですよね。いろいろ勉強になる時間をくれる人。そういうイメージです。

さて、その影山さんが「大学をつくりたい」などと言いはじめた。
その話をしたい、という夜会があったので、すこし足を運んできました。

「大学」。このコトバを日本で使うと、どうしても学校教育法第一条に定められる、いわゆる「一条校」として、社会的機能を担うもの、を指してしまう。と同時に、今は「就職の免罪符としての大学卒業資格を発行する機関」であり、「社会階層指定フィルタ」というイメージがどうしても拭えない。

しかし影山さんがそのようなものを創ろうとしているとは到底思えない。
いったい何を考えて今に至っているのだろう。とても興味深い。

 

私自身、大学にゲスト講師としてお呼ばれしたり、今でも多くの大学に「もぐり」として参戦している「大学教育と無関係でない者」として、「大学」というものに対する思い、考え、などは、おそらく同年代のなかでは強いほうだと思う。

もう気にするなという方が無理な話なのであって。 

 

さて話を私的にざっくり要約すると以下のようなものであった。

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■大学を作りたいと思ったので 、大学の元祖を調べてみた

 ・諸々ある歴史の中でイタリア「ボローニャ大学」に注目

・ウニベルシタス(universitas)と呼ばれる学生組合の存在

 ・学ぶ側が先生を選び、評価するシステム

・最初ボローニャにはCAMPUSがなかった

 ・街なかで講話や議論がされていた
 ・いわば「ボローニャという街」のなかに「学びの機能」として存在した
 ・後々、数百年経ってから箱モノとしての大学が出来た

・そんなこんなで、ボローニャ大学には創始者と呼ばれる人がいない

 

■これに近いものを作れればいいんじゃないか

・今の箱モノありきの大学ではなく、学びたい人のつながり

・学ぶために誰に教わるかも学ぶ側が考える

国分寺の街なかに「学ぶ人」が集う場が息づけばいい

■これを「大学」と呼んでいいものか?

一条校、社会機能としてのイメージを拭いきれない

・「学問」というコトバを使いたい。学び、問う、を実践するにちょうどいい

・「学問所」をつくるというイメージが最も近い

・学頭をおき、ケンブリッジの「College」のような小集団をまず持つ

・ゆくゆくは学頭となれる人が新たなCollegeを地域社会に広められたら
 国分寺ボローニャケンブリッジのように「学びの機能をもつ街」
 になるのではないか

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みたいな感じ。

 

めっちゃ面白いですね。

現代日本の大学が、公教育の延長線上で担わなければならない「社会人適性の育成」とは全くかけ離れたものだなぁ、と思った。
(原初の大学も、市民の権利を守るための「法」の研究が盛んだったらしいので、遠からずも近からず、なのだろうが)

学びたい、賢くなりたいという人だけが集い、貪欲にそれを追求していく空間では、向学心のないものはそもそも構成員になりえないので、お互いの「学び」の環境としては最高だ。

それを「学問」と呼び、その空間を「学問所」と呼びたい、という考え方がまた興味深い。
「学問」というコトバの意味を考えずにはいられない。

 

いまの大学教育は「学問の場」というより「社会人育成教育」の場になっている。それ自体は悪いことではない。社会にとっても、学習者にとっても必要なことだ。

また「オトナ」がわざわざ学ぶことの意味や意義を考えるうえでも、今回の影山さんの取り組みはとても興味深い。

学校教育において、「学ぶ動機」の現実は「稼ぐため」「生きていくため」「食っていくため」である。
公教育の延長で、企業社会においても「所得の向上」や「生産性の向上」、また「所得獲得装置のレールから外れないため」に、多くの人は学ぶ。

しかし影山さんが国分寺で展開しようとしていることは、おそらくこのベクトルとは異なる。
参加しよう、という人々は、「なぜ」学びたいのだろうか。この点も、とても興味深い。

なにかと目が離せない活動なわけですよ。

 

この件については、またtextにまとめてみたい。
考えること、思うこと、たくさんありました。

いやぁ、学びの瞬間ってのは本当に、どこにあるのか分からないもんですよ。