ハレの祭りを欲する日本人が、成人式で「晴れ着」を着るということ
UNISON SQUARE GARDENの「シュガーソングとビターステップ」
っていう名曲があるんですけども。
その曲中に、こういう歌詞があるんですよ。
祭り囃子のその後で、昂ったままの人、 泣き出してしまう人、
多分同じだろう、
でも言葉にしようものなら稚拙が極まれり
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あえて稚拙極まる事を言わせてもらいますけど
成人式でワルやヤンキーを気取った珍妙な格好をしたがる若い連中たちと、「何十万もかけて晴れ着を着る女の子」との間に、大差ないですよね。って思うわけですよ。
なんで成人の儀式のために何十万もかけて着物レンタルして日常では考えられないようなヘアメイクしてんねん。
その子らも、じゅうぶんおかしいやろ。って思うんです。
でもそれを「晴れ着」=ハレの日の衣装 としてまといたがる人たちが大勢いるし、子供に期せたい親も大勢いるわけですよ。
それと珍妙な格好で一日だけ目立とうとするヤンキーと何が違うというのか。
彼らにとっても「ハレの日」に、一日だけ特別なことしてやろう、って思っているだけでしょう。
確かに、一時期ニュースバリューを持っていた「荒れる成人式」のような…人やモノを傷つけたりしてしまう方にベクトルが向くのは、不健全だし、あるべきでないでしょう。
でも、そういう事が現象として起こってしまうことは、「祭りの非日常生」の延長として、なんとなく理解できてしまうんですよね。
賛否両論出そうだけど、「祭り」は、古来から、どこか暴力的だったり破壊的だったり、少しの危うさ、怪しさを秘めているものだったと思う。
日本人はそれに定期的に参加することで、カタルシスを得たり、デトックスしたり、というサイクルを生活に持っていたのだと思う。
現代、若者が参加できる「祭り」が少なかったから、成人式にたまたまそのしわ寄せが言ってしまっているだけなんじゃないかなと。
日常の中でストレス解消したり、カタルシス得たりできる事柄は、コンシューマ向けサービスとしては、比べ物にならない ほど増えたと思う。でも人はやっぱり社会的な生き物だから。人前で、社会化されたそういう場があると、たぶん高価は何十倍にもなるように思える。
二十歳になるから、という外的要因に「乗っかる」ことで、「ハレの日なんだから、晴れ着を来てもいいよ」社会的な免罪符が、1日限定でそこにあること。
これが、意味のあることなんじゃないですかね。
ナリが振り袖であっても、ヤンキースタイルであっても。
それでも、どうしても人に迷惑かけちゃうようなコトする連中が後を絶たないようならば、もう成人式そのものが、「はけ口を解消できるようなダイナミックな祭り」であれば問題ないのかも、とも思ったりします。
もしくは成人式以外の「祭り」。
現代に「祭り」をもっと復活させるべきなんちゃうかな。