読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

6mm方眼ノート

方眼紙に書くと、なんとなく、普通の紙に書くよりも整理できるような気がするよね。

わたしは比較的「差別的」であることと、それを指摘してきた人のこと

昨晩とても興味深いことがあった。
 
一言で言えば、ひとから「疾病者を馬鹿にするな」というような指摘を受けた、というものだ。
ちなみに疾病者本人でなく、第三者から言われた。
その場にいないある人のことを、「陰口で病人扱いしている」という構図になってしまい、その第三者の気分が害された、という感じだ。
 
確かに私に否があったと思う。
表現が雑だった。もうすこしデリケートに考え、行動や発言をせねばならないのかもしれない、と素直に反省した。
不快感を与えてしまってごめんなさい、という気持ちと同時に、そういう指摘をしてくれるひとが身近にいる事には、なんていうか、心から感謝する。
  
で、
なんで、こんな話を、わざわざテキスト化するのか、というとね。
 
ひとつは、たぶん、自分がこんなシチュエーションで人に不快感を与えてしまったことが、少なからずショックだったからなんだと思う。
その衝撃を逃がすためやろう。

もうひとつは、発達障害の知人と長く過ごしたときの経験を思いだしたからであって。
 
以下、ちょっと「そいつ」と自分とのことを少し書いてみる。
あくまでも経験談であり、一般教養や世間の常識とはずれているかもしれない。
さらに言えば、この文章がきっかけで、俺の人格を批判、否定するヒトもいるかもしれない。
(まあ、いつもの事だから、それは大した問題ではないが)

____
  
何年も前のこと。
「そいつ」は、大人になってから、某発達障害であると診断された。
 
「そいつ」はそれを周りに隠した。職を失うのでは、という危機感からだったそうだ。まあ分かる話だ。

「そいつ」は確かに、もともと変わり者扱いされていた。
職場でのことはよく知らないが、異動は多かったようだ。
人とよく喧嘩になっていた。俺ともよく喧嘩になった。
そのたびに、深く気にせずに、普通に仲直りして、普通に関係を保っていたつもりだけど。
 
俺は「そいつ」との関係が、ある程度のストレスだった。
相手を理解しようと務めてはいたが、変わり者の「そいつ」との時間には、理解に苦しむ場面が多かったからだ。

____
 
ある時、診断書のようなものを見せられた。そして一言
「どうやら自分は病気らしい」
とのこと。
 
俺はそのとき、深々と息を吸い、大きな声で、一言、こう言った
 
 「成る程 そうきたか」
 
このセリフを口にしたことが、なんか、強烈に記憶にある。

いろんなことが、妙に、腑に落ちてしまった。
これまでのストレス因子にぜんぶ、強い【免罪符】が付いてしまったわけだ。
 
汚い言い方をすれば、いろんなことを、病気のせい、と片付けた。
 
綺麗な言い方をすれば、そうであるならば、どのように接すればよいかが明瞭になったわけだ。
その後、「そいつ」との関係は、ずいぶん良好になった。
俺がある意味、いろんなことを割り切って?接したからかも知れない。喧嘩もするが、なんていうかクリーンファイトができていた。

その後も、なんだかんだで関係はしばらくの間続き、
諸事情あって、「そいつ」は、もう居ない
 
____
 
俺は「そいつ」を思いっきり病人扱いしたわけだが、不思議なことに、病人扱いする前よりも、病人扱いしたあとのほうが、断然より良い物を得ることができた。
同じように扱うのではなく、あくまで違うもの=「病人」として捉えたからだ。
 
でも俺は決して「そいつ」を馬鹿にしてはいなかった。
そっちのほうがむしろ本人の尊厳のためだ、とさえ思った。
なぜなら、そいつは、病気だからだ。
 
病気だから、いろんなことがうまくいかない。それはしょうがない。
じゃあ、俺は、そんな「そいつ」と、どうすれば目の前の事柄をより楽しめるのだろう、ということをクレバーに考えればいい、そう意識していた。
そう、
男と女がひとつのことをするように、
オトナと子供がひとつのことをするように、
病気と病気じゃない、そいつと俺とが、いろんな事をした、
というだけの話だ。
 
_____
 
そういう意味では、俺は、すごく差別的な人間だ
 
同列、同質であることを求めてない。人には能力差も容姿の差も経済格差もある。ちがうもんは、違うんよ。そう言いながら生きている、
 
でも、違いを分かった上で、違うものたちと同じ世界を生きる【覚悟】が、俺にはある。 
それは喧嘩をすること。
それは妥協や我慢をすること。
それは嫌われたり憎しみ合ったりすること。

ときには共感して笑えることもあり。
ときには自然にすっと通じ合えたり。
ときには愛し合っちゃったり。

そういったことに対する【覚悟】がある。
 
俺は、お前らとは違う、当たり前だ。
そもそもお前も、みんなとは違う。

お前は女なんだよ。
お前はハゲなんだよ。
お前はうつ病なんだよ。
お前は生まれつき脚が無いんだよ。

そのうえで、じゃあ俺たちどうするのか、って話じゃねーのか。
 
事柄によっては、一緒にやるのが無理な場合もある。
でも、差異がわかっているからこそ、やり方をうまく考えられるんじゃねーのか。
 
___
 
俺は 差異 を積極的に強調する節がある。とても差別的な人間だ
 
でも、くれぐれも言いたい。
相手を馬鹿にしてるわけじゃないんだよ。
俺だって馬鹿にされるの嫌だもの。
 
しかしながら、時として、
あなたは人を馬鹿にしている、と言われることがある。
 
これは「言い方」の問題とかもあるのかもしれない。
だとしたら、誤解を避けるための気遣いが足りなかったことは否めない。きちんとデリケートにやらなあかんな、と思う。
今回の事もそうだ。
 
しかし同時に思う。
そもそも、俺が、心の奥底ではほんとうに「馬鹿にしている」のかもしれない。
もしくは、私がそう思っていないだけで、これまでのくだりも全部、世論からすれば「馬鹿にしている」に他ならないのかもしれない。
 
当然ながら「そんなこと無い」と声高らかに酒盗したいけど、やっぱり、俺が間違っている、俺がゆがんでいる可能性だって、ある。
 
____
 
自分で自分を律するために、自分を見つめるっていう作業は常に必要だと思う。
でもセルフチェックには、すぐに限界がくる。
客観的に自分を見つめるなんてのは、半分は茶番みたいなもんだ。実際のところ、この文章も半分はセルフチェック、半分は茶番みたいなもん。
 
自分というものは、所詮、ほかの誰かが認知してはじめて在りうるものだ。
よく自分のことがジブンが一番良くわかる、などというが、あれはちょっとピンと来ない。
 
昨晩遅く、おれの発言に不快感を持ったそのひとが、俺にそういう悪態をついてくれたことは、すごく…なんていうか、意味のあることやなって思う。
そういう場面がないと「自分が間違ってるかもしれない可能性」を忘れてしまいそうだ。
   
 
話をもどすと、俺は差別主義者である。
覚悟と自信を持って、どんどん人々を差別化している。 
しかし、これすらも今後、また変えていくのかもしれない。
いまの自分に、自信も、覚悟も、あるけれども、「間違ってるかもしれない」という気持ちも忘れたくない。
 
一人暮らしよりも、俺は家族と住むほうが良いのかもしれない。
いつも他人の視点を入れることができるから。
 
家族をもつなら、そういうことを話せる、互いのありようを映しあえるような家族がいいな、と思った。