6mm方眼ノート

方眼紙に書くと、なんとなく、普通の紙に書くよりも整理できるような気がするよね。

勉強できるやつは勉強すべきかという話

おにぎり二万個握った野球部マネージャーがネットで批判されてるらしいですね。
特進クラスに進める学力がありながら、部員のためにおにぎり握るためにそうしなかった、とかなんとか。
 
生産性がどうのとか綺麗事言ってる人も多いけど、半分は妬みですよね。
勉強できるくせに、別のこともやりやがって、さらにそれで目立ちやがって、という。

気持ちは分からんでもないです。
わたしもすぐに人を妬む人間です。はい。
 
 
しかし私的には「そんなことで騒ぐな」という話です。はい。
 
特進クラスに進むか否かぐらいで他人があーだこーだ言うなと言いたい。
二万個っていう数字だって、後から集計したら、全部でそのくらいになるだろう、ってだけの話でしょう。別に根を詰めて一気にその数を握ったわけじゃない。
ざっくり沢山の数字入ってりゃインパクトあるね、という、よくある話ですよ。
中国の反日プロパガンダの際の○○万人虐殺、と大差ない。演出ですよ。
 
また昼間のネタのないワイドショーがこういうものをネタにするのでしょうね。
 
本件も、ワイドショーみて悪態つく主婦みたいな程度の連中が、Twitterで分かったようなことを言って騒いでるだけなわけで。
しかし、それがアクセス数を稼ぎ、ネットニュースになり、グ◎シーやらスマートなんたらに載ることで「今ホットな話題」というラベルがつく。
ナウい展開やね。ナウいビジネスの人々は大喜びやろうね。
 
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さておき、ちょっと思い出したことがありまして。
個人の自由意志 vs 全体主義集団主義みたいな話になりそうでちょっと嫌なんですが。
 
クルミドコーヒーというお店が西国分寺にあってね。
 
この夏は少しお休みしているけど、「クルミドの朝モヤ」という哲学カフェ企画があってですね。
そこでは皆が、その日に考えてみたい【お題】を提案するわけなんですけど。
私が以前、そこで提案したお題に
 「能力のあるものは、発揮しなければならないのか」
というのがある。
 
これは一年くらい前からわたしの頭の中をぐるぐる回っている哲学的命題であって。
 
勉強ができる奴は特進クラスに行くべきなのか。
身体が丈夫で体格のいいやつは文化部でなく運動部に入るべきなのか。
歌の上手いやつはサラリーマンなどやってないで歌手を目指すべきなのか。

世の中には「埋もれた才能」というのがたぶん沢山あって、それが全て発揮されれば、経済的な生産性も、文化レベルもすごく上がりそう、な気がする。

しかし、「才能があると分かっているけど、それをしない」という人々をどう扱うか、という問題だ。
そもそも才能に気づいていないという場合もあるだろうが、それはさておき。
 
だれよりも足が速い人がいたとする。
ウサインボルトより速い。陸上やればスターになれる。

観光資源としても活用できるかもしれない。でもその人は
「競争が嫌いだし人前に出るのも好きじゃないから陸上とかちょっとやりたくないですね。自分は食べるのが好きなので調理師にでもなります」
 
と言ったとする。さて、我々は
  1, 無理やりにでも走らせるべきか
  2, 調理師目指すことを応援するか
という問題。
 
君はだれよりも足が速いんだよ!と諭すと。
 「はい知ってます、たぶんボルトより速い」
と彼は答える。
なんで走らないの?!と問えば、
 「いや競争とか人前とかマジで勘弁してください」
と答える。
本人の意思を尊重するなら、走らせないほうがいいわけだ。
 
しかし、彼はボルトより速く走れることを、自分でも知っている。
さて、彼は走ったほうが、いいのか。
 
何て面白い問いなのだろうか!!
こういうの考えるのワクワクするよね。
 
 
今回のおにぎり二万個マネージャーの話で、このことを思い出した。
つまり「勉強できるやつは特進クラスに行くべきなのか」という話だ。
おにぎりを握ったのが自分の意志であるか、という部分も関わってきてしまうので、
「本人の意思ならば、選択は自由なのか」
と同時に
「能力を無駄にする選択は損失なのか」
という、二本立ての問題がここにはある。 
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ちなみに
「クルミドの朝モヤ」ではその日、この課題は採用されなかった。

しかしクルミドコーヒーの店主は個別にコメントをくれた。
私の記憶によればこんな感じだった。

「才能や能力っていうのは、ほんとうに自分一人のものなのか。お父さんお母さんのおかげでもあるし、環境がそうさせてくれたのかもしれない。また偶然に突然変異的に備わった、いただきもの?のようなものかもしれない。それを使わずにいる、というのは、個人的には、そうあるべきでないと思う。まして能力を自覚しているなら、それを世界に還元する?ことが、やはり正しいのではないか」

成る程、一理ある。
ギフティッド思想というやつに近い。
才能は神が与えたものであり、世のために還元されねばならない。特筆した才能は早めに抽出し、最大化して、世界を良くするのだ、という思想ですね。アメリカなんかでは盛んですね。
 
最近、アメリカで飛び級で大学進学した日本の子供のおかげで、この言葉は以前よりは知られたかもしれない。
 
 
しかし、これは見方を変えれば、「個人の権利を無視した社会主義全体主義」ともとれる。
ちょっと天才なだけで、社会のために、世界をより良くするために生きることを、周りから求められるわけだ。しかも物心ついた時から。
なぜなら貴方は、神が人類に与えたもうた奇跡の人だから。
そいつ自身の人権よりも、社会にとっての生産性のほうが重視される。
ものすごく抑圧的でものすごく暴力的なもの、とも解釈できるわけだ。
 
ちなみにギフティッド思想は、ほんとにサヴァン症候群くらい異質な才能に適用されるものを本来は指す、という解釈もある。
私はこちらに賛成だ。
ちょっと勉強で秀でたくらいでこの思想を適用すべきではない、と私も思う。
 
なので最近報道されてた日本人少年の件でギフティッドがどーのこーの言ってるのは、私的にはあんまりピンと来ない。
 
あーエリートに対する囲い込み教育そのものを否定してる訳じゃないですよ。
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ていうかね。
この問題で最もわたしがピンと来ない、というか、「残念」なのは、
「能力のあるものが、それを選ばなかったとき、その人間が【攻撃されがち】である」
ということ。
 
その際に、多くの人は、社会への還元率がどーのこーの、とか、経済的生産性があーだこーだ、とか言う。
それだけや無いやろ?って思う。
妬ましいからやろ?って思う。
それがイライラすんねんて。
才能が羨ましい、妬ましい、て素直に言えよ。て思う。
 
まあ俺がひねくれとるだけかもしれんけど。
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ちなみにおにぎり二万個マネージャーの話に戻すと、はっきり言うけど、
「特進クラスに行かなかったくらいで失われるような学力なら、
 他人が声を挙げて擁護するほどの価値は無い」
と思う。
ほんとうに生産性を発揮できる人間なら、これから幾らでも発揮できるやろう。
マネージャーとしておにぎり握るという行為は、どうやらそれなりの価値を発揮したようやし。
これから これから。
それだけのこと。
 
ちなみに、おにぎりを握っていたという選択が正しかったのかどうか、は、私にはなんとも言えない。
是非を問えるような立場でもないし。 
 
ただ、女子マネが握ってくれたおにぎりが食べたいかと言われればどうか。
 
食べたい…よね、うん、食べたい。
 
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本人がやりたい事ならそれをさせるのが正しいのか、という命題もある。
ちなみにクルミドの朝モヤで
 「主体的なほうが素晴らしいのか」
というお題を提案したことがある。
ちなみにその際には採用されなかった。その日の方々にとって、もっとピンとくるお題が他から出たからだが。
 
今度また誰かと話したいな。こういう話。
能力は必ず発揮されるべきなのか、について。
付随して、主体的なほうが正しいのか、について。
 
すんませんねぇ。俺こんな事ばっか考えてるんすよ。