6mm方眼ノート

方眼紙に書くと、なんとなく、普通の紙に書くよりも整理できるような気がするよね。

嫌い、という感情

うまく言えないけど、なんか最近、ある程度「人に嫌われたい」と思うようになってきた自分がいる。
あぁ、こりゃ 敵 作るんだろうなぁ、という行動や発言を、意図的にすることが、しばしばあるのではないか、と自省している。

私には「好きなもの」が多い。おそらく多趣味と言われる側の人間であるし。
好きなものは好きだとはっきり言いたい。
そのぶん、嫌いなものは嫌いだなー、と強く感じてしまう。
その感情は、基本的には押し殺すべきなのだろう。
社交辞令としてもそうだろうし、周囲にネガティブな因子を振り撒かないように、であるとか、自分自身が嫌われないように、といった合理性もあるだろう。

しかし最近の私は、なぜだろう「嫌い」を押し殺さない。
別に尖った人間をアピールしたいわけではないが。
いや、したいのかもしれない、無意識には。
人によっては中二病の2ちゃんねらのようにも見えてしまうかもしれない。

なんか「好きなものを好き」という気持ちの裏側で、同じだけ「嫌いなものは嫌い」という営みが動いているような気がしている。
脳内で、というより、胸の中で。

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好きなものを好きと言って、好き合いたい、好かれあいたい。当然、わたしも、そうだ。

そんな気持ちばかりが世に溢れるなかで、ふと思う。
人間は好きなものがあるぶん、嫌いなものだってあるだろう。嫌いと言いたい場面だってあるだろうし、嫌われることだってあるだろう。望むか望まないかは別として、そういう汚いものも、常にこころに持ち続けるものだ。

それに抗うかのように、嫌われないように、損をしないように、ネガティブ因子を振りまかないように、明るくポジティブに、いい人を振舞うべきだ、という理屈もあるでしょう。
「好きなものを好きだと素直に言うのは素晴らしい。でも、嫌いなものを嫌いというのはやめなさい」
なんか小学校の先生みたいな言い回しになっちゃうなあ…

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なんか、うまく言えてるかは微妙なのだが、わたしはどうしても「嫌い なものは、嫌い でいたい」。

ある程度の人を嫌って、有る程度の人に嫌われたほうが、その人から発せられる「好き」の気持ちも【ホンモノ】のような気がしてならない。
そんな自分であることを、ある程度、周りの方々にも分かって欲しい。

それが社会人として不適正であるならば、わたしは不適正者であることを受け入れるしかない。


好き という気持ちは、嫌い と切り離して独立して存在しうるか、否か。
私も、しうる、と思う
嫌い、という対概念との相対性でしか 好き が存在し得ない、ということになってしまったら、「好きな食べ物は多いが、嫌いな食べ物はありません」という図式が成り立たなくなる。

…まあ「好き嫌いなく食べる」のは別の話かもしれないが。
もっと嗜好性の高い文化的なもの…で比喩できないものかな。ちょっと思い浮かばないけど。

要するに、相対主義 なのかなぁ、私は

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それにしても、私はなぜ最近になって「あぁ、こりゃ敵作るだろうなぁ」的な発言をしたくなっているのだろう。
感性における「ホンモノの 好き」を求めるためだろうか。
それとも心が病んでいるだけか。

後者かもなぁ、って思う。体調とかが悪いとネガティブになるしね。


だとしたらネガティブ振りまいてるだけの迷惑野郎じゃねぇか。社会人として不適正ですね。

あーなんか受け入れるって言っちゃったなぁ…さっき…