6mm方眼ノート

方眼紙に書くと、なんとなく、普通の紙に書くよりも整理できるような気がするよね。

「主体的な学び」という言葉は美しい

「主体的な学び」
というコトバそのものは前から耳にする。近年の学校教育だと、「学び合い」の実践が主体性を育てる、などという言説も多く目にとまるようになってきた。
反面、集団授業の講義形式が主体性を殺す、などととなぜか無下に罵られたりするのもたまに見かけた。マイケル・サンデルが流行ったせいで変に煽られた層が出ただけであろう
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「主体的な学び」。いい響きだ。
確かにこれが、学習者にとっても、教育者にとっても、最高に効率もいいだろうし、互いのその場の精神的満足度も高いだろう。
そういう意味では、学びという行為は主体的であってほしい。

問題点を敢えて上げるなら、実際に主体的に学ぶためには、以下が満たされる必要があることだ
― 何よりまず学習者が、個体として、主体性を発揮できる存在であること
― 学習行為、もしくは学習内容が、学習者にとって主体的に取り組もうと思える事柄であること
― それが継続的に実践できる環境や条件があること

つまり「主体的に学べる」場面がありうると同時に、主体的でない学びの場が世の中にごまんとあるわけだ。

そんなことはない!すべての人間は能力的には主体的に学べるはずだ!

そんな反論が聞こえてきそうだが、「その場において、その事柄を、主体的に学べない人」なんてのはごまんといる、という意味です、悪しからず。

とすると、新たな問題がふたつ。
1)主体的に学べない人に、記号としての「主体的な学び」を押し付けるとどうなるのか
2)受動的に・強制的に学んで育っていく人間は、主体的に学ぶ人間と比べて優劣があるのか

「主体的な学び」なんて興味深い事柄なのだろう。
ちょっと誰かとこの話を酒でも飲みながらしてみたい。
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わたしは最近、学習者としては、けっこう麻痺してきているかもしれない。まさに学びの姿勢がここ1,2年でどんどん弱くなっている。

勉活?せなあかんのかなぁ。

いつまで人は学びつづけるのだろうか。
いつまで人は育ちつづけるのだろうか。
育ち と 学び は別のものではあるが、なんて興味深い事柄なのだろうか。