6mm方眼ノート

方眼紙に書くと、なんとなく、普通の紙に書くよりも整理できるような気がするよね。

Suica忘れたせいで身体性の重要さ(の一端)が身に沁みる

本日カードケースを持たずに家を出てしまったので、久々に切符を買って電車に乗ったわけですが。
なんか小銭で切符を買うことで、いつもより【運賃】というものが見にしみる。
あぁ、160円だなあ。みたいな。

やっぱり「身体性」って大事なんやね。
100円と、50円と10円が指からするっと落ちていく。

記録と数字だけでやり取りするだけでなく、
小銭入れから160円を選びとり、小銭をチャリンと投入口にいれたり、
千円冊を一枚一枚、捲って数えたり、
するのが、なんか「お金払ってる感」があって良いな、と感じた。

しかし、どちらが便利かと言われれば、勿論カードでピッ、のほうが手間はかからない。
私だって日頃はSuicaでピッ、の人だ。
でも、思い返せば、あの行為は1円でも1万円でも「身体性に差がない」のだよなあ、と考えさせられる。
せいぜい、わずかに視覚でデジタル表示を確認するくらいだ。

現金で払う時は、その差を目でも指でも大きく感じられる。
わずか重量1gの一円玉を小銭の中からつまみ出すことと、ほぼ同じ重さながらあれだけ大きくて気品のある一万円札を財布から取り出すこと、
そこにある「身体性の差」。

あと、数枚の紙幣を自分の指で数える「動き」、あれがなんとも言えずいいですよね。
…2、3、4、っていう、あれね。
目でみて、指で感じて、お金を払う。

これを面倒くさいと思うか、あぁ なんか良いな、と思えるかは、行動主体(この場合はわたし)の性格だったり、その瞬間のアンテナ感度…心のゆとり?にも依るのかもしれないけれど。

そう考えると、テレビゲームの身体性も危ういですね。
コンシューマゲームのユーザーはスマホゲームに流れつつあることで、
これまでも鈍かった「ボタン押す」だけの身体性(アナログスティック除く)が、タッチパネルのタッチ、スライドに全面的に置き換えられている。

あんまり変わらんじゃないか、と思われるかもしれませんが、
メールを打つときも、Webを見るときも、ゲームをするときも、
【同じ手触りの画面を、ほぼ同じピッチで触っている】
わけで。

ヒトの暮らしの身体性の幅は、ユニバーサルデバイスの登場によって著しく均一化されている。
ニュースを読むとき、遅刻の連絡をするとき、パワプロするとき(他のゲームでもいいけど)、
以前はそれぞれに、違うものを触り、違う強さで、違う動きをしていたはずだ。
今は指先でガラスをなぞる、という均一な身体動作ですべて一元化されている。

そういえばスマホをカラオケのリモコンにするアプリがあるな…私も利用したことがある。
Androidでは赤外線でテレビのリモコンも操作できるようだし。
成る程、スマホに一元化できるのは便利ではある。だ。ただ、ここでも独立した身体性(デンモク触る、リモコン触る)は失われている。

自宅にPCがあっても、なんとなくスマホでネットやテキスト打ちをしてしまっている人も多いだろう。
PCの立ち上げ時間や常に手元にある手軽さなどがその理由として挙げられるだろうが、
もし、
【同じ手間、同じ作業量であるのなら、均一化された身体動作のほうが楽だから】
PCに手が伸びてない、という視点もあるだろう。

身体性の均一化は、「便利」を求めた結果としてのひとつのシンボルだろうが、なんつーか、本当にこれでいいのかな、という怖さのようなものはある。

…みたいな事を、
久々に切符を買っての山手線ホームでずっと考えてました。
カードケース忘れたばっかりに。
あと、小銭を払う事を、あぁ、良いかも、と感じる事ができた自分自身の問題もあるのでしょうね。