6mm方眼ノート

方眼紙に書くと、なんとなく、普通の紙に書くよりも整理できるような気がするよね。

「ゆるせない話」の会、はテレビでなく市民会合として成り立つだろうか

キライなものをキライと言ってもいい時間、
俺はあれに腹が立つ、おれはあれを許せない、と言える時間を、
人と持ったらどうなるだろう。
トークイベントみたいな感じで。
そう、人志松本のゆるせない話みたいな感じで。

飲み屋で勝手にやってます、という人も多いだろうが、
そこを、あえて、会合として、イベントとして行ったら、
どうなるだろうか、という話。

1,
個人的には、俺にはキライなものがいっぱいある。
キライなものを嫌って、嫌われるやつには嫌われてしまえばいいと思う。
(私が愛するロックバンドの唄にも似たようなのがあったが)

「嫌い」は憎しみや排他感情だけではないと思うんですね。
私はこう思う、私はこう考える、私はこれが好きだ、だからこそ、比較的これは嫌いだ、と言える。
だとすれば、自分がキライなもの、それはまさに「モヤで曇った自分の鏡」ではないだろうか。嫌いを叫ぶ、それは「わたし」を表現することに他ならないのでは、とさえ思う。

曇った鏡をしゅっと ひと拭きするように、みんなキライを叫べばいいのではないかなぁ、という感覚が、常に私のなかにある。
でも、人に嫌われたくない、人と喧嘩をしたくないので、日頃は皆、その感情を隠しがちだ。

2,
上にも書いたが、ネガティブなことを言ってはならない、という場面は、TPOを考えればとても多い。

それでもヒトは、どうしてもネガティブな感情を抱いてしまうものだ。それを自分の中にどんどん溜め込んでしまう。それを「吐く」術がなければ、ひとは腹の中から病気になってしまう。

だからヒトは、愚痴や陰口をたたく。健康のために、ネガティブを吐く

嫌なものは嫌だ、キライなものはキライだと言っていいんだよ、という場所は、まさに「癒しの時間」にもなりうるんではないか、とも思うわけで。

3,
とはいえ、「嫌い」はネガティブな事柄なんですよね。
キライの話は、ひとを不快にさせやすい、これは間違いない。
自分が愛して止まないお客様が心をこめて作った料理を、目の前で「わたしこのパイ嫌いなのよね」と言われたら、キキ(魔女)だってジジ(猫)だって不愉快になってしまうかもしれない。
あのおさげの金持ち風の女の子が腹立ってしょうがなくなるでしょう。
   (「魔女の宅急便」より)

その空間で、いかに「目の前のひとを嫌いになれずにいるか」に挑みたい。
ヒトの負の感情に触れ、それでもなお「なぜ、私は/貴方は、これがキライなのか」に向き合えたら素晴らしいな、って、単純に
「あこがれる」。

日常では生まれないような、深い自己投影と他者理解がそこでは可能なのではないかと。
 
 
…とはいえ、うーん。無理かなぁ。。。
ファシリテーションを本気で考えれば、できると思うんやけどなぁ。