6mm方眼ノート

方眼紙に書くと、なんとなく、普通の紙に書くよりも整理できるような気がするよね。

「お寺で対話する夜」というのに参加してみた(1/2)

昨日「お寺で対話する夜」という謎のイベントに参加してみました。
「お寺に行く」という営みと「対話 による 頭の体操」という、ふたつの楽しみを、
同時に味わえる、たいへん良い時間になりました。
そう、久々にblogにでも上げておくか、と思えるほどに。

FBページ
http://www.facebook.com/events/114103155407444/
こちら、もう第3回になるシリーズ企画との事。
実は初回からジュリさんからFaceBookでお誘いをずっといただいてまして
その頃から興味はあったのですが、他の予定と被ることが多く
今回やっとの参加となりました。

夜の帳が降りた品川区某所。
小雨の中、商店街から伸びる参堂から境内に入ると、
どこか懐かしい「正面には本道、その脇に玄関」というお寺の構造。

玄関をあがって廊下(とにかく廊下らしい廊下)を進み、
本道に入ると、開けた空間、畳、ご本尊。
あぁ。
お寺ですね。

「こんばんわ」とジュリさん+初見の皆さまとご挨拶をしたあと、
荷物を脇に置き、畳に腰をおろした私は

誰に言われるでもなく【正座】をしていたんですね。

あぁ、おもしろいなぁ、としみじみ思いました。
その場にいた方々がみな正座していた、というわけでもないのに、
正座なんてしたくもないのに、
何故私は正座する事を選んだんだろうか、と。

広い畳のスペース、という、めったに無いファシリティがそうさせたのか、
それともお寺の本堂という空間や奥にいらっしゃる住職らしき人の
存在、威厳、のようなものが自分をそうさせたのか。

会が始まるまでのすこしの間、私は
私と「お寺」というものの関係について思い返していました。

…子供の頃は、ごく日常のなかに「お寺」がありました。

小学生の頃は、お寺が主催するサマーキャンプに何度か参加しました。
そのお寺の娘さんが姉のクラスメイトだったご縁もありましたね。
子どもだった私の目にうつった住職さんは「リーダー的」な感じでした。

10代の頃の友人グループのなかに、2人ほど寺の息子がいました。
その頃の私にとっては、お寺は“友達ん家”としてたまに尋ねるものでした。
いっつも家に居る住職さんは「**の父ちゃん」という立ち位置でした。


…地元を離れ、京都で暮らしているときは、また違う「お寺」がありました。
お寺は観光地であり、史跡であり、ランドマークでした。
住職の(゜-゜ )なんて知りません。

その存在に触れる機会はとても多かったのですが、
どこかよそよそしく、生活の一部と言うよりは商業広告や商品のように
「お寺」を感じていたような気もします。


…東京にきてからは、
そもそもお寺に触れる事が無くなってしまいました。
「神社」には何件も足を運んでいるんです、明治神宮靖国神社
あと近所で夏にお祭りやってる長崎神社であるとか。
でも、お寺とのご縁がそもそも無い。

今日、東京ではじめて、「お寺」に靴を脱いで上がったんだなぁ、と思うと、
それが出来ただけで、今日はなかなかに意味のある事かもしれないな、


と思ったそのとき、


本道の奥手で会のはじまりを待っている20代後半くらい?のお坊さんが、黒い衣の袖からスッと
 「ファミコンコントローラーのカバーつけたiPhone
を取り出し、ぐりぐりと操作し、ヒョイと黒い衣の袖に投げ入れた。


な ん か お も し ろ い 。


…いや、まぁそりゃそうだよね、
坊主がスマホ使って何が悪いんだよって思いますよ。
思いますけど、なんか、なんでだろう、
 お も し ろ い。って思っちゃって

そうしているうちに、会がはじまるのでありました。
対話のことは、明日にでもまた書いてみようかなと思います。