6mm方眼ノート

方眼紙に書くと、なんとなく、普通の紙に書くよりも整理できるような気がするよね。

「レベルの高い大学教員」はむしろ学生や第三者の意見なんて聞いて欲しくない

公益財団法人「世界平和研究所」(会長・中曽根元首相)は9日、入学定員の大幅削減や英語での授業推進などを柱とする「大学改革試案」を発表した。

 試案は「日本復活の鍵は高等教育の再生が握っている」とし、世界に通用する質の高い高等教育の実現を目指し、大学の抜本改革を提言。短期大学を含めて1000校を超える日本の大学は淘汰
とうた
が必要とし、併せて入学定員の削減も求めた。

 「世界標準の大学教育」の実施に向け〈1〉英語での授業や討論〈2〉9月入学〈3〉卒業単位の厳格認定――を掲げた。学生が長期間、就職活動に専念せざるを得ないような状況も改めるべきだとした。また、大学教員のレベルアップも不可欠とし、教員資格に任期を設けることや、学生や第三者に教員の指導内容を評価させる制度の導入が必要だとした。

(2012年4月11日 読売新聞)

http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20120410-OYT8T00953.htm

何が気になるかといえば、

>>また、大学教員のレベルアップも不可欠とし、教員資格に任期を設けることや、学生や第三者に教員の指導内容を評価させる制度の導入が必要だとした。

の部分ですね。

「学生や第三者」が、果たして大学教授を評価できるのかという疑問です。
現役の学生に授業評価アンケートなりで講師を評価させたとして、果たして選ばれた講師が【優れた大学教育を行っている】と言えるのでしょうか。
授業評価アンケートで選ばれるのは【学生にとって都合の良い講師】になるのでは、と懸念します。
志高い学生は自分に厳しい講師を選ぶかもしれませんが、多くの学生は(偏見かもしれませんが)自分にとってやりやすい講義形態を❝良い講師❞とし、自分の理解の枠内で展開される話を❝面白い話❞とするのではないでしょうか。

持論ですが、教育はある程度、抑圧的、啓蒙的であるべきです。
教育する側が、アウトカムに対する思想、主張をはっきりと掲げ、誰に何を言われようと、それに向かって頑なに教育を行うべきです。

どのような教育を施すのが正しいのか、それは誰にもわかりません。
なぜなら、教育を施した生徒/学生たちが社会でその実力を発揮するのは、5年、10年、20年先だからです。未来の社会は今の常識が通じないかもしれない、日本という国家も、現行の社会体制が続いているかも分からない。だとすれば、教育者(=学校・文科行政)は「願う未来」「目指す未来」(=学生をどのような人間に育てたいか)を何かしら設定し、そこから絶対にブレてはいけません。
まして学生の意見でコロコロ授業形態や達成基準を変更するなんてことがあっていいわけがない。何故、これから知性を学ぶ側が、知性を与える側の都合を理解できるというのでしょう(もちろん例外はある、無能な講師もいるだろうし超天才の学生も存在しうるので)。
 
 
第三者、という評価者も納得出来ないのです。
大学と関係ないところで活躍する方に果たして大学の何が評価できるのか。
20年前に大学を卒業した人間に、現在の大学教育を評価させて本当によいのだろうか。よっぽどの教養人で無い限り大学教育の是非や優劣を説くなどという事ができるはずもなでしょう。というより、もし語れる人間がいたら大学や文科行政は迷わずその方をスカウトすべきでしょう。
因みに、職業訓練校・技能訓練校である場合、産業界の意見を入れるべきでしょうが。
 
「レベルの高い大学教員」はむしろ学生や第三者の意見なんて聞いて欲しくないですね。もちろん程度問題はありますが…