6mm方眼ノート

方眼紙に書くと、なんとなく、普通の紙に書くよりも整理できるような気がするよね。

あなたにとっての「試験に落ちる」ことの意味

 
大学受験のシーズンですね。
就職難の中、就活戦線もかつてない?程の厳しい闘いを強いられています。
 
人生の節目において我々は試験というものに直面し、それに臨まなければならない。
 
私も多くの試験を超えてきました。落ちるときはバッサリと落ちましたし、劇的に合格することもありました。泣き笑いそれぞれの思い出があります。
さて、「わたしは今までの人生の中で、一度も試験に落ちたことがない」という人は世の中にどの程度いらっしゃるものでしょうか。大変に素晴らしいことです。それだけの能力があることの証明になっています。
さて、「何を受けても落ちて落ちて落ちまくる、今まで何度落とされてきたことか」という方もいらっしゃると思います。そんなに過密に試験ばかりしている人生も何か不自然ですが、「就活」は実際そのような状況でしょうね。
大学に進学し、就職活動を経験した場合、多くの方が「試験にどんどん落ちる」ことを経験することでしょう。
 
この「試験に落ちる」という事象は、受験者からすれば悔しい、悲しい、避けて通りたいものでしょう。
しかし、立場変わって試験する側(ex.学校、企業の採用担当者)、また試験される事柄(ex.弁護士という仕事、車を運転するという行為)にとっては、「受験者が試験に落ちること」にはとても大きな意味があります。
 
愚問と言えば愚問ですが、少し記してみます、試験に落ちるということの意味について。
 
 
1)大学入学試験で考える
例えばAさんがT大学を受験したとします。その試験の結果が不合格であったとする。
 
Aさんにとっては「望んだT大学に進学できない」「T大学に進学して、その先の進路まで想定できていたのに潰された」という大きな「負」の要素があります。
ではなぜ、大学受験というシステムはAさんにその「負」を与えなければならなかったのか。大学側に悪意でも無い限り、Aさんに発生する「負」を補ってあまりある「正」の要素がそこに存在するからだ、といえます。
 
T大学は試験によってAさんの能力や適正を判断します(その方法や基準については本件と関係ないので触れません)。4年間Aさんに教育を施すうえで、その効果が期待できない、きちんと正課を出せるようになる見込みが薄い、そこまで育てる自信がない、等々により「Aさんはここで4年間を過ごすべきでない」と判断したなら、T大学としてはAさんを入学させるべきではありません。もし入学させてしまったら労力と時間を余計に消費してしまうことで、教職員の負担が過大し、他の学生に対する責任能力が下がるかもしれない。それだけでなく、Aさんにとっても教育機関として不誠実な態度をとってしまいかねない。下手をすれば、馬鹿にしたり見捨てたりしてしまうリスクもある。
これが、T大学にとっての、ひとつの「不合格者を出すことの正当性」でしょう。
 
では、Aさんにとって「不合格だった」ことはどのような意味があるのか。
試験の結果、能力・適正がT大学にそぐわないとした場合、AさんがもしT大学にそのまま入っていたとしたら、Aさんは「伸びない」可能性が高いはずなのです。だから不合格になった。
もし仮に、試験の採点のミスで、Aさんの能力・適正がT大学に沿っていない状態での入学が叶ってしまったとします。Aさんは喜びT大学に入学するでしょう。しかし、そこでAさんはT大学で得るべき恩恵を受けられない可能性がある。悪く転べば大学や周囲の人間から卑下され、見限られてしまう可能性さえある。これはAさんの人生にとって大きな損失になりえます。
つまりAさんにとって「試験に受からないレベルでT大学に入る」ことは「大きな損失リスクを抱える」ことに他ならないわけです。試験に落ちたことで、Aさんはそのリスクを回避することができた。それだけでなく、自身の能力・適正に沿ったキャンパスに行く機会を保持しつづけることもできるし、能力・適正を磨いて再チャレンジする機会まで与えられている。
 
これがAさんがT大学に落ちたことの意味です。「望んだ進学先に行けなくて悔しい」「人生の予定が狂った」という負の要素意外にも
・大学は大学としての責任能力を維持できる
・大学は教育機関としてAさんに無責任な態度をとらなくてすむ
・Aさんは成長のフィールドとしてふさわしくない場所に入らずにすんだ
・Aさんには進路の選択肢がまだ確保されており、入学してしまうよりも先々の成長の可能性が確保されている
などの多くの「正の要素」がそこにはあります。
 
 
…難しく書きすぎました。もっと単純に考えてみてもいいですね
 
2)自動車の運転免許で考える
運転免許の試験に落ちたとします。運転ができない、早く運転したい、悔しい。…受かりたかった。何で落ちたんだ。受かれば良かったのに。畜生。
と、このような心理状態になる方も多いのではないでしょうか。
しかし、運転免許の試験に落ちるレベルの人間が公道で車を運転すれば、迷惑行為を起こしてしまうなどして公益を損ねる可能性があります。何より運転者自身が他人を傷つけ、加害者になってしまう可能性もある。不本意に他人を傷つけ、自分の経歴にも傷がつく。あってはならないことです。
きちんと受験者の能力と適正を査定し、運転者の質を一定以上に保たなければ、物流もサービスも安定しませんし、何より人命を不必要に損なってしまう可能性がある。
社会にとっても、本人にとっても、落ちるレベルの人は落ちておいたほうがいい。
これが「運転免許試験に落ちる意味」です。
 
3)新卒採用の就職試験で考える
エントリーシートを出して、グループワークして、面接をして、面接をして…こんなに時間も労力も使ったのに、不採用の旨のメールが届いた… なんて苦い思い出が私にもあります。
この会社に入りたかった。この会社で活躍できると思ったのに。なぜ私のやる気を分かってくれなかったんだ。私の能力を見抜けなかったのか?などなど、志望度が高ければ高いほど考えてしまうものです。
しかし、愚問ですが、就職するということは、内定を得ることが目的ではなく、組織の構成員として利益を上げることです。
会社は受験者の能力や適正を判断するとき、もちろん「優れているかどうか」も参照しますが、何よりも優先される判断基準は「一緒にここで仕事をしてうまく回っていくか」です。能力の優位はその部分要素でしかない。性格、体力、ビジュアル、思想・価値観、また雇用者の“好み”など、あらゆる面で、「うまく働いてゆける」人を選抜しているのですから、どんな会社でも必ず受かる人材、などというものは存在しえません。
学生にとっても、「○○社の内定がとれた!やった!」と騒いでいられるのは学生のうちだけです。
組織の一員として価値ある存在になれるかどうか、また自身の能力や適正のなかで無理なくそれが叶えられているかどうか。それこそが就職の成功・失敗の分かれ目です。
何かの間違いで不一致な会社に内定がとれてしまった場合、待っているのは悲劇です。いやいや顔を合わせなければいけないような同僚達、どんどん押しつけられるキャパシティ以上の仕事、文化や思想の不一致による疎外感と不信感、などなど。
 
もちろん上記のような社員を採用してしまうことは、会社にとっても時間的・費用的に大きな損失です。
しかし私は言いたいです。不採用になるべき会社から不採用の返事をいただくことは、受験者にとっても有意義かつ幸福なことであると。
これが「就職試験に落ちる意味」です。
 
とはいえ、人は働かなければ食べていけない。そのために労働はしなくてはいけない。この現実との兼ね合いは難しいところです。
 
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上記は「試験に受かる」「試験に落ちる」ことのみにフォーカスしたものであり、実際には個人の経済事情など、第3の要素も絡んでくることがあるでしょう。
しかし私が上記のようなことを考え、ここにテキストとして残したのは、
1)試験は、ただ優劣や達成を競うものではなく、構造的意義をもって行われるものであること
2)試験に受かればOK、落ちたら意味がない、のではなく、落ちたことにも意味はあること
を意識しておけば、より人生が豊かになるのではないか、と感じたからです。
 
最後にもうひとつ。試験がその構造的意義を正当に発揮するためには、
「適正な問題づくりと試験方法」
が絶対に必要です。これが揺らいでしまっては構造的意義は崩壊する。
運転免許試験も大学受験も就職試験も、試験をすることの意味と意義、試験の向こう側をしっかりと意識した上で、適正な問題づくりと試験の運用を是非に行ってほしいものです。ここに労力を割くことを惜しむような組織・団体は、正直、試験なんてしなくていいです。